2009年01月19日

はじめに

 
 
 2008年 文藝 落選作品
 
 
 紫源二 著
 
 
 『 狂 犬 革 命 』
  
 
 18歳以上限定です
 
 
 copyright Hoshitaro
 
 since 2005-05-22 01:44:20
 
 
 
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2009年01月18日

1 太陽の降り注ぐテラスのようなアトリエで

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「イエスさまのおなまえによって、アーメン。」
 ぼくが神に祈ることを覚えたのは、三つのときだった。
 クリスマス・イブの夕方、アル中で酒を飲んでは女をつくっていた父は、三才のぼくと母を置き去りにして、その日を境に二度と家に帰らなかった。何も知らないぼくは、母に連れられて、近所にあったプロテスタント教会の礼拝堂の椅子に座っていた。
 教会の祭壇の壁には大きな十字架が架かっていた。
「あそこになにがいるの?」
 ぼくにはそれがなにかとても不思議なもののように感じられて母に訊ねた。
「イエス様がいるのよ」
「イエスさまって、かみさま?」
「そうよ」
「じゃあ、あそこにかみさまがいるの?」
「そうよ」
 そのとき、ぼくには“神様”は見えなかった。しかし、あの壁に架かっている大きな十字架が“それ”の象徴なのだということは、幼いながらにも理解したのだと思う。ぼくは、それをいつまでも見上げていた。
「イエス様のお名前によってお祈りします、と言ってお祈りするのよ」
 母に教えられたとおり、三つのぼくは手を合わせ、大きな十字架を見上げて初めて“神”に祈った。それが何だかわからなかったにしても。
「おかあさんをおまもりください。イエスさまのおなまえによって、アーメン」
 それなのに母の暮らしは一向に良くならず、近くの工場で働きながら、安アパートを借りて女手ひとつでぼくを育て、高校を卒業する前に倒れるように死んでしまった。

 今、目の前にいる加奈子は、五十号のキャンバスが架かっている大きなイーゼルの向こうから、全裸で立っているぼくをじっと見つめている。
 加奈子の豪邸の二階にあるアトリエは、屋根まで吹き抜けの天井に丸い大きなガラスの明かり窓が開いていて、そこから音もなく降り注ぐ澄んだ秋の光で満たされている。
午後になって加奈子の仕事(美大の講師)が無い日はいつも、ぼくは彼女の絵のモデルになることが日課になっていた、と言ってもここ数ヶ月のことだが、十月に銀座の画廊で開く個展にぼくをモデルにした油絵も何枚か出したいと加奈子は言いだし、毎日五十号の油絵のモデルになっている。
「搬入するまでに絵の具が渇くか心配だけど、どうしてもあなたを描いた作品も出したいのよ」。
 テレピンの匂いが漂う明るいアトリエの中には、既に完成した百号以上もある大きなキャンバスが数枚立て掛けてある。ワニスも塗られていて作品も乾いている。これらの大作は、田口をモデルに描いた絵だというのは見ればすぐに判る。全裸の男は、人間の身体ができ得る限り不自然なポーズをして、暗い青紫の空間に浮かんでいる。画面の天頂からは青い薄光が差し込んでいて、男の筋肉の陰影をぼんやり浮かび上がらせている。たくましい肉体には不釣合いなほど頬の痩せた顔は、肉体とは対照的に明るい白光に照らしだされているのに、己の内側だけを見つめつづけることに絶望したように、天上を見上げている。それを見て、実際の田口の外向的な性格とは反対だと思った、が、熟練したデッサンで写実的に描かれているから、間違いなく田口がモデルなのだということが判る。彼が暗黒舞踏を踊っているときに見せる顔。瞼から飛び出しそうに見開いた両眼は、真ん中に寄ったまま上を向いている。タントラ僧のような表情だ。真っ赤に充血した毛細血管の一本一本までも細かく描かれている、加奈子の偏執狂的写実は、ダリの影響だろうか。絶望の苦しみを象徴するために額に刻印されたような深い皺が眉間に縦に走っていて、そこだけハイライトに照らされた白塗りの顔の中で、ビニールを貼り付けたようにてかっている。ワニスをその部分に厚く塗っているせいだろう。逆に身体はつや消しになっていて、闇に同化している。全体に薄暗く、シュールで薄気味悪い絵だ。これらが今回の個展に出品される絵なのだろう。既に出来上がっていて絵の具も乾いている。ところが、加奈子は、ぼくをモデルにして絵を描きたいと言いだした。個展が始まるまで、もう絵の具が乾く時間もないというときに。
「あなたを描いてみたいの。明るい光の中で、身体の隅々ばかりか、あなたの内面までリアルに、何もかもがクリアに透けて見えるように描きたいの」
 田口を描いた暗い絵だけを出品するよりも、もっと明るい絵も何枚か取り混ぜて展示したほうが、メインの作品も引き立つと考えたのだろうか。一方は堕落した地獄のイメージだとすれば、その中に天国のイメージも挿入させようとしたのだろうか。加奈子は恋のキューピッドである“小便小僧”を、青年のアポロンのように描いてみたいと言った。
「じゃあ、田口さんをモデルにルシファーを描いたから、こんどはぼくをモデルにしてアポロンを描くってわけ?」とぼくが言うと、「そうよ。するどいわね」と肯いて「あなたってほんとうは子供なのに、そんな知識だけは大人みたいに詳しいのね」と、加奈子は嬉しそうに言った。どんな知識? と訊くと、「宗教よ。あなたってとても宗教的。子供みたいなのに」と言いながら、加奈子はぼくの身体をじっと見つめた。
「ぼくが宗教的?」
「そう。あなたの中には二つの理想が戦っているの。わたしには分かるわ。それがあなたをとてもストイックで宗教的にしているの」
 加奈子は大きなキャンバスの横から身体を出して、持っていた筆を下にだらりと垂らしてから言った。
「ねえ、もっと気を楽にして、もっと自由になっていいのよ。恥ずかしい?」
 そんなことはなかった。加奈子のことは嫌いじゃないし、もう彼女の前で全裸になるのに慣れてしまっていた。“自由に”気を許すと、自然にぼくのペニスは勃起してきた。それを見て、加奈子は独言のように呟いた。「やっぱり、あなたの身体も、まだ大人になっていないみたい・・」。そして彼女はぼくに“小便小僧”のポーズをするように、真面目な顔で指示した。ぼくは加奈子が言うとおりに腰を突き出し、大人の“射精できる”ペニスをつまんで立小便をする格好をして見せた。
加奈子は目を輝かせて、「いいわ。もっと腰を突き出してみて」と調子に乗ったように注文をつけた。ぼくもそれに応え、小便小僧のポーズの割には上半身をのけ反れるだけのけ反らせて腰を突き出し、加奈子の前につまんだペニスを持ち上げて見せてやった。「ごめんなさいね。そんな格好させて」。いいよ、藝術のためだもの、ぼくが言うと、加奈子は「あなたって優しいのね」と真面目に応えてから、「とってもいいポーズだわ。いい絵が描けそう」と言って絵筆を持ち、さっそくキャンバスに油絵の具を塗り始めた。
 それからというもの、ここ数日は毎日、このポーズで加奈子の前に立っている。

「小便小僧って、子供だからいいんじゃない? やっぱり大人だと変だよ」
「そんなことないわ。大人だってあなたなら、いやらしく見えないもの」
「どうして?」
「わからない」
 加奈子は少し真面目に考えているようだったが、絵筆を動かしながら何か別のことを思い出したかのように喋り始めた。
「ナルシスティックなアポロンが下界に降り注いでいるのよ。金色の雨を・・」
「黄金の雨?」
「そう。小便小僧が池に噴水注いでいるでしょ? あれと同じように・・」
「それをアポロンもしろっていうの? 下界に向かって?」
「そう。面白くない?」
「でも・・、もちろん本当にしなくていいよね。ここでは・・」
「えっ・・ええ・・もちろんよ。でも、もし、できるなら・・お願い。できたら、してみてくれない? あの・・今、バケツ持ってくるから。リアルにデッサンしてみたいのよ」
 そこまでして描かなくてもいいんじゃないかと思った。実際に見て描かなくても、それなりの絵は想像で描けるはずだ。ルネッサンスの巨匠じゃあるまいし、それほどの写実を追及しているわけでもないはずなのに、それに、そんなヘンタイでもないはずなのに、加奈子も、ぼくも、それでもなぜか、それを実際にやってみようという気になってきた。
 自分でつまんだペニスがだんだんと勃起してくる。ぼくはキューピッドではないから、つまんだペニスが大きくなってくるのは成人した男性ホルモンの働きのせいだ。その先から出るのは小便だけじゃないのは加奈子もぼくも当然知っている。全裸になって、しかも女性の前で性器を出していると、たぶん野生の本能のせいだろう、小便をしたいわけでもないのに、それが大きくなってくる。でも、勃起したまま小便をすると、尿が四方に飛び散る。いつもそうだ。でもそれが小便だったとしても、この勃起したモノの先から、なにかを放出したくなってくる。もし彼女の目の前で、本当にこのペニスの先からそれを放出させたら、きっと気持ちがいいだろう。
 加奈子が持ってきたバケツに、ぼくは小便をして見せた。亀頭の先のきつく口をつぐんだ尿道から迸るオシッコは、小便小僧のようには一直線に弧を描かず、計らずもあっちこっちに飛び散って、前に置いたバケツはなんの意味もなかった。それでも、亀頭の先から迸り出た尿は、天井から降り注いで跳ね回っている光に照らされてキラキラ光り、まるでトパーズのかけらをばら撒いたように空中を飛翔し、落下していった。
 床まで濡らしてしまったことなど咎める様子もなく、ただ加奈子はぼくが放尿する様子をじっと見つめていた。そして、小便をし終わると彼女は言った。
「ありがとう。よかったわ」
 それから、ぼくに近寄り、ティッシュで小便の臭いのするモノを優しく拭ってから、なにも気にする様子もなく、それを手にとって眺め、頬ずりを始めた。
「あなたは、この世とは別の、理想を信じているのよ。そうでしょ?」
思い出したかのように、唐突に加奈子が言う言葉は、ぼくを驚かせた。
「理想?」
「そう。この世のものではない真実の世界。いまだに明らかになっていない真理。あなたの理想はその真理を知りたいという純粋な欲望なの。ちがう?」
 加奈子は、真面目に真っ裸になって、小便をしたばかりのペニスを突き出したままでいるぼくを見上げながら言った。
「だから、あなたを描いてもいやらしくならないのよ。そうじゃない?」
なんだか今、自分が考えていたこととは別のことを言われたような気がして、それに、床に散らばった小便の臭いが気になったから、ぼくは自嘲的に笑った。
 真理? 理想? 本当にそんなものがあるのだろうか。この臭いのようにそれは感覚できるものなのだろうか?
「あなたには、この世のものではないなにかを求めるとっても強い要求があるのよ。理想を求める欲望と言ってもいいかもしれない。でもその理想は、この世的なものじゃないの。そうでしょ? 自分でもそう思わない?」
 正面から突き出しているペニスを弄びながら加奈子は、床に飛び散ったぼくの尿を自分のスカートですっかり拭いてしまっているのにも気付かないのに、なんでも視透せる占い師か霊能者にでもなったつもりなのだろうか。それとも本当になにか霊感でもあるのだろうか。ぼくが放尿する姿を見て突然、ドック・スターからの啓示でも受けたのだろうか。 じれったそうに口調を強めてさらに言う。
「ねえ、あなたは自分で、自分のことがわからないの?」
 黙っていると、わたしには“見えるのよ”と加奈子は言った。
それを聞いて一瞬ギョッとした。
 いったい、これ以上、ぼくのなにが加奈子には“見える”というのだろう。
「ぼくが求めている“理想”は“快楽”だと思うよ」
 全裸のぼくは、勃起したペニスをいじられるまま、そう言った。
「あなたって正直ね」
加奈子は大声で笑いだした。
「アハハハハ!」
 ぼくもそれにつられて犬のように笑った。
「アハハハハ!」

 そんなことより、そろそろ腹が減ってきた。つまり、理想より現実というわけだ。日が西に傾くと、天井の大きな丸ガラスから差し込む光も和らいでくる。
「何にする?」と案の定、加奈子がぼくに訊ねる。今日もまた宅配ピザを頼むことになるのだろう。いつも同じじゃないか。でも、腹が空いていると同じものでもおいしく感じるのは何故か。なんか、人間ってバカみたいだ。
「ピザでいいよ」
 でも、今日はわがままを言ってみた。
「いつものマルガリータに、ソーセージとかサラミとかトッピングできないかな?」
 長い睫の加奈子が、全裸のぼくの下半身を股の下から上目使いで眺めながら、ペニスに口をつけてから言う。
「あなた、私の絵をどう思う? 美しいと思う?」
 ぼくは裸のまま肯いた。
「そう。ありがとう。でも、本物のあなたの方が絵よりも美しいわ」
 そう言われてぼくは気付いた。ぼくは、あそこを彼女の口の中に入れられたまま、未だにモデルをしているようにつっ立っている。律儀に自分に課せられた役に従っている奴隷のように。つまり、小便小僧のように全裸で、さっき放尿したばかりのペニスを勃起させたまま、加奈子の舌で愛撫されながら腰を突き出し、脚をやや開いて立っている。こんな格好をして、ここに、こうしている自分っていったいなんなのだろう。 なぜ、今、ぼくは、ここにこうしているのだろう。
 私は誰か。
 たしか、インドの聖人が、そんな問いを生涯自らに問い続けたという話をどこかで聞いたことがある。そのとき、ぼくは感動した。「汝自身を知れ」というデルフォイの神託も、それを聞いた途端に呪いでも掛けられたかのように、十代の初めだったぼくは一生かけてでもその問いを解かなければならないと思ってしまった。難解な公案に取り憑かれてしまった禅僧のように。そして、それから、ぼくは、自分を知ることに魅せられ、そして、たしか十七のときから、この問いを問いながら、自ら着込んでいた衣服を一枚一枚脱ぎ捨ててきたような気がする。それまで植えつけられてきた社会的常識、学歴だとか、将来に対する人生設計だとか、そんなものは自分を知ることには一切役に立たない、むしろ他人から植え付けられた“入れ知恵”だと思って、それらを他人から着込まされてきた衣服を一枚一枚脱ぎ捨てるようにはぎ取って、自分は本当の自分に出会うまで、他人とは違うことに没頭してきたら、最後に裸の自分が残った。裸の自分しか残らなかった。だからぼくは今、文字通り、全裸なのだ。むしろ、何もできない、社会からも、誰からも認められもしない裸の、ただ他人の、見知らぬ女の前で放尿することくらいしかできない犬のように裸の自分。
「あなたの身体は綺麗よ」
 加奈子は、突き出しているペニスを舐め、しごき、弄り回しながらささやく。いつもと同じだ。ペニスが射精しそうになると、加奈子は絶妙にそれを放置して、携帯に握り替え、ピザ屋に電話して、いつものダブル・チーズのマルゲリータにソーセージとサラミをトッピングしてくれと注文した。ピザが来るまでの二十分の間にぼくは、射精してしまうだろう。そして、運ばれたピザをぼくがガウンを着て取りに行くと、加奈子は居間に降りて赤ワインを用意する。二人はそれを飲み、宅配ピザを食べながら、しつこく交わり続ける。
 携帯を脇に置いた加奈子が再び弄り回しているぼくの性器。それは、加奈子がこれから口にするソーセージと同じなのだ。そのわりには、芸術的にまでに繊細に、亀頭を愛撫してくるはなぜか。一気に口に入れてしゃぶり、味わえばいいのに。
 玉葱の皮を一枚一枚むいていくと、最後に“無”だけが残るという。
 なにものもわれにあらず。私は存在しない。
 そう明言している“私”とはいったいなんなのだろう。
「あなた、女の体、好きでしょ?」
 自分の唇に人差し指を入れてから、濡らした指の腹でぼくの亀頭の先を撫でながら、加奈子がぼくの耳にささやく。
「ねえ、あたしの身体、好き?」
 ぼくは、勃起したペニスの先が加奈子の濡れた指先で冷たくなるのを感じながら肯く。
 プルシャン・ブルーの絹のブラウスを着た加奈子が、ぼくに身体を絡ませる。
「ねえ、あたしの胸、どう?」
 ブラウスのボタンを外し、ブラジャーから胸をはだけて見せる。
「白くて、きれい」
 思っていることを正直に言う。
「そう。ありがとう。ねえ。でも、ほかに好きなところある?」
 加奈子はセクシーに腰をくねらせて、上半身を裸にして全裸のぼくの皮膚にこすりつける。
「あなた、女のどこが一番好き?」
 床に倒れこんだぼくの顔の上に、床を濡らした小便で黄色く染みになった白いシルクのスカートがかぶさる。そのまま筋肉質の脚を広げて、膝を曲げて馬乗りになり、ぼくの手をとって下着の中に誘導してくる。
汗ばんだパール色の生地と肌の間に導かれた指が、陰毛の奥で濡れて熱くなっている窪みに埋め込まれていく。加奈子は肉体をくねらせ、指を吸い込み、溜め息を吐く。
「感じるわ」
 乳首がピンクに光っている真っ白くて大きく膨らんだ乳房でぼくの顔をこすりながら、「ねえ。あたしのどこが一番好き?」と訊く。そして自分から腰を上げてパンティを尻から外し、露わになった性器から溢れる蜜で濡れた太ももの上を滑らせていく。
 ここ、と言いながら、露わになった性器にもぐり込ませた人差し指を、ベトベトの穴の中で動かす。
 そう、と加奈子は興奮しながら言う。あなた、あたしのここが一番好きなの。
 全裸になった加奈子は脚を開いたままゆっくりと立ち上がり、そこから指を引き抜くと、脚を開いたままぼくの顔を見下ろす。目の上には、さっきまで触っていた女の性器があり、その上にぼくを見つめる二つのガラス球のような目がある。
 筋肉質の脚とふくらはぎ。つるつるした硬いお尻。白い乳房と脇の下。加奈子は自分の肉体の全てをぼくに見せつけるように身をくねらせながら屈み込み、ぼくのペニス、両手、顔、唇に接触させながらささやく。
「あなた。どうして、あたしが好きなの?」
「気持ちいいから」
「気持ちいいの? ここが?」
 硬くなった亀頭の先をヌルヌルと指でこすりながら、自分の中に入れようとする。
「ううん。そこじゃないよ。気持ちがいいんだよ」
 ぼくがそう言うと加奈子はペニスを口にふくみ、散々しゃぶった挙句に、アトリエの床の上に四つん這いになって、仰向けになったぼくの目に、突き出した尻をつけながら言う。
「ねえ。ピザ屋が来ちゃうわ・・はやく・・して」
 濡れた股間の汗の甘い匂いが、ぼくの尿の臭いよりもきつく鼻をつく。その腰を掴み、顔に近づけ、鼻でそこをこすりながら、強烈な匂いを嗅ぐと、思わず鼻腔が痛くなる。香水が一瓶ふりかけられたのだろう。まるで開ききった花のようにヴァギナを押し広げ、強烈に匂う濡れた花弁を見ながら、体勢を立て直し、花芯に男根を挿入する。
 加奈子のゆれる身体、乳房、尻、髪が、激しく欲情してくる。
 接触し、摩擦しあう性器が欲望を挑発し、良心に痛みを感じるほど強く、お互いの肉体をいじめ合う。
 加奈子は、自分は子供が生めない身体だと言った。だから今日も、彼女の中に射精する。
 遺伝子が結合して新しい生命を誕生させるために生まれる快楽。それなのに、それが果せないと分かっていて射精されるぼくの精子。その精子には結合すべき遺伝子の半対が格納されている。それらは自分の半身を求めて泳ぎ回る。それがどんなに虚しくても、半身の自己が生きている限り、それはもう一つの半身と結合しようとして彷徨う。
 いったぼくはい今までに、どれだけ多くの自分の片割れを、体外に放出しただろうか。DNAの片割れを開放し、自由にしてやっただろうか。そして、今までに、いったいどれだけのぼくの片割れが、半身を求めて泳ぎまわり、虚しく死んでいっただろうか。
 片想いとは、この世に生まれなかった遺伝子の、生への憧れに似ているのかもしれない。
 玄関で呼び鈴が鳴る。
「もう来たわ」
「うん」
 筋肉質の下半身をぼくに見せつけながら床から起き上がった加奈子の裸体。縮れた陰毛が太ももの間で濡れている。
 ぼくは思った。ぼくは、ただ、不思議なくらい静かだ。ぼくは、もうこれ以上、自分が誰かなんて金輪際、一切、問う必要もないほど静かで、満ち足りている。
 玄関で呼び鈴が鳴る。
加奈子は自分の裸身をくねらせながらぼくに近づき、再び身体を絡ませて、広げたヴァギナにぼくのペニスをこすりつける。
 ヴァギナから、さっきぼくが放出した精子のいくらかが漏れ出てきて、加奈子の内股を伝う。
 さらに、玄関で呼び鈴が鳴る。
 わざと加奈子は溜め息混じりにぼくのペニスを優しく握りながら、ぼくの頬に自分の唇をつけて言う。
「あなたって、とっても、若くて、ナイーブ」
 ぼくは、加奈子の裸身を振りほどき、ガウンを纏って急いで玄関に向かって駆け出す。

 一階の大きなリビングの窓は全てぶ厚いカーテンで閉じられていて、クリスタルのシャンデリアが高い天井からぶら下がっている。まだ外は明るいのに、真っ暗な部屋の中で、クリスタルグラスに反射する色とりどりの光だけが、ひときわ美しく上品に灯っている。真っ赤な革張りのソファの前に黒檀のテーブルがある。ぼくはガウンを着て革張りのソファの上に敷かれた豹の毛皮の上に座っている。既に黒檀のテーブルの上には、蒸気で濡れたピザの箱が置かれている。加奈子は、細かく彫刻された銀のお盆に赤ワインとワイングラス一式を載せてきて、その横に置く。
 ぼくがピザの段ボール箱を開き、蓋がじゃまにならないようにそれを引きちぎるのを、新しい衣装を身に纏った加奈子がソファにもたれて見ている。加奈子は自分の大きな二つの乳房を隠すように、まるで舞台衣装のような派手なワンピース(白い絹地に銀の格子模様)に着替えて前のボタンを窮屈そうに締めている。短いスカートの裾は、尻がやっと隠れるくらいで、まるでミニスカートのようなその裾から伸びた長くて硬い脚を見せつけるように、ぼくの前で脚を組んで座っている。
 ぼくは目を伏せて彼女を見ないようにする。衣装があまりにも芝居じみていて、さらに、ヴェルディのオペラがリビングに響いているから。ぼくは、もっと無機質な音楽の方がいい。イタリア的情熱より、ドイツ的悟性の方がいい。それなのに加奈子は言う。「イタリアの赤ワインよ。情熱的なあなたがコルクを抜いてね」
「どうやってやるんだっけ?」
「簡単よ。教えてあげる。そこにナイフがあるから出してみて」
「ほんとうだ。アーミーナイフみたいだね」
「それで口を切って」
 言われたとおりに丸い口に沿ってナイフを入れ、口の包みを開ける。
「それから、コルクにねじ込むのよ、その螺旋のグルグル」
「螺旋のグルグル?」
「そう。そして、引き抜くの。ちゃんとビンの口にテコの一方を固定させるのよ。こうやって」
 加奈子の細長い白い指がぼくの指と重なる。
「ここにあてて引き抜くんだね。こうやって」
「そう。上手。上手」
 ワインボトルの口からコルクが全部抜けると、加奈子の手がぼくの手から離れる。なんだか冷たい風が吹いたような気がする。
「これであなたも上級ソムリエになれるわね。でも、レディー・ファーストを忘れないでね。まずあたしに注いでくれる?」
 二つ並んだ大きなワイングラスの一方に、なみなみと赤ワインを注いで加奈子に差し出す。
 ありがとう、と言いながら、加奈子は今度はもう一つの大きなワイングラスに赤いワインをなみなみと注いでぼくの耳に近づいてささやく。
「ねえ、あなた。なに考えてるの?」
 甘い吐息がワインの香りと混ざって匂ってくる。
 ぼくは目を細め、別になにも、と答える。
 差し出されたワイングラスを手にとり、一口飲んでみる。葡萄の甘みと酸味がアルコールで揮発された香りとなって鼻腔を通り抜ける。目を瞑って飲み下すと、ほのかな渋みが口の中に残る。
 加奈子はぼくの頬に唇を寄せて、あたしには教えてちょうだい、いったい何を見てるの? と目を瞑って黙っているぼくに問い詰める。
ぼくは、荷物を置いてある部屋に戻り、自分の荷物を担ぐと、出口に向かう。ジーンズを穿き、Tシャツを着る。
 ぼくは、今、加奈子の豪邸の玄関を出た。
 ぼくは静かに言う。
「さようなら」
 一瞬、苦しそうな表情をした加奈子は、外に出るには無防備すぎる格好をしているから、それ以上ぼくを追いかけたりはしない。
 ああ。きれいな空が見える。
 ぼくは立ったまま、裸で加奈子と何度も性器を交えたことを思い出している。目を閉じて。瞼の裏側に。
「いったい何が?」と加奈子は言って、ワイングラスをぼくに渡そうとする。「何が不満なの?」
「あなたとぼくの未来」
 台風の夜、ぶざまに路上に倒れた聖子。彼女の顔面に射精したときの彼女の聖母のような目。たった一度だけ交わったあの性器の感触。
「ぼくは、違う人に恋をしている」
「え? その人を見てるの?」
「うん」
 豪華なリビングに敷かれたペルシャ絨毯。その上に置かれたガラスのテーブル。加奈子はぼくから渡されたワイングラスをその上に叩きつけるように置いて言った。
「あなたってとってもエゴイスティック! あなたは自分が恋しいのよ」加奈子はそう言いながらぼくの口びるを舌で舐めた。
「たしかに自分が恋しいのかもしれない。でも・・自分っていったい何?」
「え?」
 ぼくの口の中に煩わしく這い回ってなにかを求めていた加奈子の舌が止まる。窮屈に着込んだ小さすぎるブラウスのボタンが弾け、弾力のある乳房がガウンを着たぼくの胸と接触する。
「そんなこと知らないわ。それより、恋って、恋してるって誰を? あたしじゃなくて、いったい誰を? ねえ、誰を片想いしてるの? 誰を? 誰を? 誰を?」
 加奈子は、ぼくの口の中に、荒い息だけの言葉を吐き続ける。
 片思い? なぜ加奈子にはそれが“片思い”だと分かるのだろう。
 霊的な半身。ぼくが恋しているのは自分自身の半身なのだ。そして、それを求めているのは霊的な欲望。この世の肉欲ではない・・そう思ったが、頭の中では、雨に濡れた道路にぶざまに尻餅をついて、怯えながら憎悪の目でぼくを睨みつけていた聖子の目を思い出している。その目が涙に滲んでいたのが思い出されて・・ぼくは、涙を流している、ぼくは、なぜか、涙を流している。でも、今、目の前でぼくを見つめている目は加奈子のもので、それに、彼女にはそんな過去の回想に耽るぼくの見ている映像が見えるはずもなく、それに、胸の内に湧き上がるこの悔恨の気持ちなど判るわけもなく、それなのに、加奈子は、ぼくの回想を邪魔するように、口の中に苦い匂いのする言葉を吐く。
「それは今、あなたの前にいるあたし。そうでしょ。そうでしょ」
 黙っていると、はだけていた胸を隠して、ぼくから離れた。
 黒檀のテーブルの匂い。
 宅配ピザのチーズの匂い。
 ぼくの目から涙がこぼれる、匂い。
 目を開けると、加奈子が全裸になって、後ろ向きに床に四つん這いになっている。さっきと同じように。
「あなたが恋する人は、あたしより欲情するの?」
 ぼくが求めているのは、霊的欲望で、肉体的欲望じゃない。
 それでも、加奈子は、後ろを向いて、脚を広げ、ぼくに裸の尻を突き出してわざとそこを見せつけようとする。
 ぼくは黒檀のテーブルの上に置いてあったワイングラスを掴んで口に運ぶ。
 赤ワインをひと呑みすると、さらさらした誰かの血みたいだと思う。
 チーズがたっぷりとろけたピザが手付かずに並んでいる。そのひとつを注意深くつまんで、三角形の頂点を口の中に入れる。
「あなたが恋する人は、こんなことできる?」
 大きな尻を開いてアヌスまで露わにして、加奈子はそんな自分の恥ずかしい姿をぼくに見せつけようとしている。それなのに、その目は、ぼくがピザを食べているのをじっと映したまま動かない。
 とろけたチーズが舌の上で丸まり、歯に粘りつく。それを舌の先で剥がして咽喉の奥にワインと一緒に流し込む、その間も、加奈子は床の上で四つん這いになったまま、ぼくを待っている。ぼくが激しく彼女を欲するのを・・。でも、ぼくはピザをワインと一緒に味わっている。そして堕落した裸の女を見ている。そんな加奈子がだんだん哀れに思えてきて、片手に食べかけのピザを持ち、片手に飲みかけのワイングラスを持って、彼女に近寄る。床に坐って、ワイングラスを加奈子の肉体の傍らに置き、食べかけのピザを口に咥え込んで、空いた手で後ろ向きの加奈子の尻を押し広げ、尻の谷間から露わになった濡れた性器に、そっと触れてやる。
 口いっぱいに頬張っていたチーズが口元からこぼれそうになり、舌で嘗め上げて、傍らに置いたワイングラスをとって一口、口にふくむ。押し広げられて濡れた性器は、手を放すとゆっくりと口を塞ぎ、そこから露が滴り落ちる。加奈子は長い髪を振り上げて赤ワインを飲んでいるぼくの目を振り返って睨みながら、濡れたヴァギナを自らの手で押し広げる。まるでピザの代わりにそこを食べろと言うように。
 ワインのせいで頭に血が上ったぼくは、テーブルの上のピザの一切れを掴み採り、零れ落ちそうなソーセージをチーズごと丸め込んで食べようとしたが、いきなり思いついてそれをワインを含んだ口で嘗め回してから、目の前に開いている女陰に押し込んだ。ソーセージに付いていたチーズが女陰からはみ出して垂れてくるのを舌で舐め上げて味わう。
「天上の食事を摂るものは、地上の食事を摂る事はない」
 ふと、どこかで聴いたイタリア・オペラの台詞を思い出す。
 ぼくが摂っているのは、地上の、それも、堕落した食事以外の何物でもない、と思う。
 ああ、どんな味がするの? 言ってみて、と加奈子は言う。
「ピザより、ピザとワインを混ぜたより、おいしいよ」
「ああ、うれしい。あなたが食べたいものはなんでも食べさせてあげる。だから・・」
 加奈子はソーセージを咥えたままの四つん這いになった尻を上げてぼくの顔の上にまたがる。ぼくの額を撫でながら、あなたがしたいことはなんでもしていいの、だからあたしから離れないで、と言う。
「こんな女、他にいる? こんなにいい女、他にいる?」と言ってぼくの目を見つめる。そして、豊満な胸に股間からはみ出たチーズを塗りたくって、その上にワインを注ぎ、ぼくに嘗めさせる。
「こんなに美味しい女が他にいる? ねえ? ねえ?」
 ぼくは加奈子のピザにまみれた乳房や性器や尻を舐めながら言う。
「ううん。いないよ」
「だったら、あたしから離れないで。ずっと。ずっと、一緒にいて」
「うん。わかったよ」
 欲情した加奈子の目が、ぼくを見ている。
「あたし以外に、あなたが誰に恋をしようと、あたしはかまわない。でも、お願い。あたしにちょうだい」
「いいよ・・なんでもあげるよ。でも・・なにを?」
「運命よ」
「運命?」
「そうよ。あなたの運命」
 全裸になった加奈子はぼくの上で自分の性器に詰め込まれていたソーセージを抜き取り、替わりにぼくの性器をその中に入れる。
「でも、運命って、自分でどうすることもできないものでしょ? だったら、それをあげたりあげなかったりする自由もぼくにはないはずだよ」
「そう。そうよ。どうすることもできない・・それでいいの。抗えないもの」
「抗えない? ぼくの自由にもできない? あなたは、そんな運命を欲しいの? いったいどういうこと? それがぼくの運命だから抗うな、降参して身を委ねろっていうの?」
 加奈子はゆっくりと腰を動かしながらささやく。
「自由よりも強いもの。それが本当の運命よ。そして、それに身を委ねることこそ勇気がいることなの。そして、それが本当の自由なのよ」
「それじゃあ、さっきあなたが言った“理想”とは別のものじゃないか。理想を持っていたら、決して運命なんかにやすやすと身を委ねたりしないよ」
「でも、その理想には決して到達できない。だから理想は理想として永遠に留まるの。永遠の理想を求めるのはいいわ、でも、確実にあるこの現在を見失わないで」
 加奈子の目は大きくて美しかった。それが上からぼくを見つめていた。それは、当然、不真面目には見えなかった。でも、ぼくは素直に加奈子の言うことを肯定する気にはなれなかった。
「確実にある現実? それがこの現実っていうわけ? そんなものに満足していたら、ぼくには自由なんて必要ないことになってしまうよ。間違ってもいいから、ぼくには自分の未来を試す自由があるはずだ」
 加奈子は長い髪をかき上げると言った。
「そう、わかったわ。あなたはあなたの運命に抗いたいのね。それが自由だと思っているのね。でも、あなたがどんなに自由でも、あなたがあなたであるところのものに、自分の意志で抗うことなどできないはずよ」
 ぼくは、上にいる加奈子をどけて起き上がった。
「だったら、ぼくは自由なんかじゃない。初めから決められた道を進むようにプログラムされているロボットと同じじゃないか」
「そうじゃない。あなたはあなたよ。そして、あなたがあなたであるところのものをあなた自身が抗うのが自由だと感じているなら、あなたはあなたを破壊せずにはいられないでしょうね」
 全裸の加奈子は、ぼくの上から降りると、傍らに座ったまま強い口調でそう言った。ぼくはおもむろに立ち上がった。
「もし運命が自由よりも強いものだったら、そうかもしれない。でも、自分の未来は自分で決められるはずだよ」
 加奈子も立ち上がって、ぼくに身体を擦り寄せてきた。
「あなたは、まだ気付いていないだけ。だから、自由意志が何度間違ってもまた同じ選択をしてしまうほど強い絆があることがわからないの。そして、本当はそれをあまりにも強く欲しているから、自由意志すら及ばないほど強く、結ばれてしまうものがあることにあなた自身も気付かないだけなの」
「本当はそれをあまりにも強く欲しているから、自由意志すら及ばないほど強く、結ばれてしまうもの?」
「そうよ」
 加奈子は自信に満ちた表情でぼくを見た。
「恋よりも強く?」
「そう。とても。比べ物にならないくらい」
「それはなに?」
「あなたじゃない」
「え?」
「あなたじゃないの」
「えっ、ぼくじゃない?」
「そう。驚いた? わざと驚かせたわけじゃないのよ。でも驚いたのならごめんなさい。でも、あなたじゃないの」
 ぼくは一瞬、加奈子が何を言っているのか分からなくなった。突然、加奈子はどうにかなってしまったのだろうか。いったい何を言っているのだろう。でも、加奈子ははっきり言った。「あなたじゃない。あなたじゃないの。覚えておいて・・」と。
 加奈子は全裸のまま、ぼくの身体に胸を摺り寄せて、ぼくの頬を撫でながら言った。
「あなたは誰を恋してもいいわ。くやしいけど、許してあげる。でも、その恋とは別に、あたしを愛して。あなたのからだで。私が死ぬまで、ずっと、ずっと、ずっとよ。・・いい?・・あいして。あ・い・し・て、おねがい。ねえ。お・ね・が・い・・」
 二人はそのまま抱き合い、床に倒れこんで転げ回りながら、再びぼくは加奈子の中に男根を入れた。そして・・射精した。そして、それからまた、何度も何度も、射精した。加奈子は、自分は子供が生めない身体だと言った。だから何度でも何度でも彼女の中に射精してやった。







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2009年01月17日

2 オープニング・パーティー



 
 加奈子の個展のオープニング・パーティーは盛況だった。
 銀座でも新進気鋭の現代美術を扱う有名な画廊らしい。天井も高く、スペースもかなり広い。
 田口をモデルに描いた百号の大作四枚が、正面の壁面と、その両側の壁面を飾っている。タイトルを見ると、「堕落/上昇 あるいは漂流T、U、V、W」とある。正面の二枚はシンメトリーに、一方は天に上昇し、他方は地に堕ちる全裸の男が描かれている。その両脇のそれぞれには、顔だけを光に照らされて、身体を窮屈にねじ曲げた全裸の男が空中に浮かんでいる。どことなくベーコンを思わせる頽廃的画風だ。それでも女性が描いた絵画らしく、男の描き方は生真面目に写実的で、色彩がシュールな分、キッチュな感じがする。でも彼女の才能がはっきりと際立っているのは、端正に描かれた男の顔の表情の写実の確かさだ。眉間に皺を寄せて悶絶しながら落下している男は、明らかに田口だが、田口が暗黒舞踏で見せる奇態な表情よりも絵のほうがはるかに崇高で宗教的な気品を感じさせる。それでも、重力の影響を受けない二次元の絵画上では、本来、どちらが天上でどちらが地下かは定かではないのだが、仮に下が地上だとするなら、男は、そのまま真っ逆さまに重力の方向に落下している。たぶんその下には、奈落という名の地獄の淵が永遠に口を開けているのだろうが、当然それは画面からはみ出した遥か下方にあるから見えない。ところが、その絵を見ていると、絵に描かれていない地獄が、画面から外の世界、つまり、この“地上”という現実そのものを暗示しているように見えてくるから不思議だ。“現実”をフィクションである平面の絵画の中に取り込む、こんな斬新な構図を、彼女はどうやって構想したのだろうか。禅寺の借景のように、日本に古くからある伝統を彼女はパクっただけなのかもしれない。しかし、いずれにせよ彼女には、他人にはない才能があるのは確かだ。ただの“自称芸術家”ではないばかりか、ただの“女流画家”として話題になるだけの画家でもない。天に上昇している男は全裸のまま脚を広げて、両腕を天に向けて伸ばしている。広げた両脚の付け根に、上を向いた男根がかなりはっきりと描かれている。顔は白い歯を見せて笑っているが、眉間には深い皺が刻まれていて上昇の恐怖に気もふれんばかりに耐えているのが感じられる。左の一枚は、上半身を不自然にねじ曲げ、尻を後ろに突き出し、顔は正面を向いたまま、片脚を高く上げ、片脚を下に伸ばしたまま、空中に斜めに浮かんでいる。身体は暗く描かれているが、性器の辺りだけが薄明かりに照らせていて、突き出した男根が黒いシルエットで浮かび上がっている。それに比べて反対側の漂流の図の中に描かれた男は、後姿で平泳ぎをしているようなポーズで宙に浮いている。尻を突き出しているから股間の男根は見えない。ただ、アヌスだけはヌメヌメと光っている。振り返った顔だけがこちらを向いていて、真剣な目つきで鑑賞者を睨んでいる。それを女性の目を通して描かれた絵画だということを知って見ているからだろうか。男の身体のどの部分も平等に、省略されずに描かれていることが、なぜかとても新鮮なことのように感じる。一方、どの絵を見ても、描かれた男性の裸体以上の思想性を作品の中に感じる。そのこともまた、女流画家には似つかわしくないことのように思えてくる。たくましい肉体と、退廃した宗教性。俗世的ソドムの悦楽によって、天上に上昇しようと画策しているかのような矛盾した超越志向。明らかにこれは宗教画に違いない。でも、こんな宗教画は今まで見たことがない。ルネッサンスでもバロックでもこんなに神聖で異教的な絵画はだれも描かなかった。きっと、田口の部屋にあったような本に書かれていた神秘学的思想から、インスピレーションを受けたのかもしれない。
 
 もう二度と会うことはないと思っていた田口。その田口が盛況の来客の中に混じっているのが見えた。美術関係者だろうか、それとも舞踏のファンだろうか。四、五人の男女に囲まれて談笑している。自分の筋肉を誇示するかのように、ぴったりと身体にフィットした黒いラメ入りのシャツを着て、白い歯を見せて笑いながら、今日の主役でもあるかのように目立ってなにか喋っている。自分がこの絵のモデルであることを吹聴しているのだろうか。それともきれいに化粧して着飾った女の子を口説いているのだろうか。周りに集まって嬌声を上げている若い女の子たちはきっと、加奈子が講師をしているという美大の学生なのだろう。
 会場の一角には、ワインやビールや日本酒、カクテルやジュースなど、なんでもありという風に並んでいて、お決まりの渇き物の他、皮を剥いた果物やキャビアの乗ったクラッカーなどつまみの種類も豊富で、寿司職人まで来て、小さなカウンターで寿司まで握っている。その辺りは人ごみになっていたが、ぼくは掻き分けて行ってトロとウニを注文し、自分で白ワインを紙コップに注ぎ、目立たない一角を見つけて、ひとりで鮨を口に入れていた。
 こんな豪勢なオープニング・パーティーなら、さぞお金がかかるだろう。いったい誰がスポンサーになっているのだろうか。このギャラリーのオーナーだろうか。それともパトロンがついているのだろうか。そんなことを考えていると、「今回も、もう既に今日で全部完売らしいですよ」と、誰からともなくそんな噂がささやかれているのが聞こえてくる。
 何故だか、自分のことのように嬉しくも感じながら、集まった人たちのファッションに目を奪われていると、
「よお!」
 いつの間にぼくを見つけたのか、田口が声をかけてきた。
「お前、今、加奈子さんの所にいるんだろ?」
「うん」
 トロを頬張りながら肯いた。
「やっぱりあの女(ひと)も変わってるよな」
 田口は顔を歪めて独言のように言った。
「オマエな、あまりあの女(ひと)に深入りするなよ」
「え?」
「馬鹿だなオマエは。加奈子さんのこと、何も知らないくせに・・」
 田口は辺りを見回しながら言った。
「彼女の元のだんな、やばいからな」
「え? だんな?」
「お前、知らなかったのか? 別れたって言ったって、まだ囲われてんだよ」
 ぼくは一瞬、頬を殴られたようなショックを受けた。
「・・そんな気がしてたよ」
「バカだなあ。そんな気がしてただと? なんの気だよ?」
「だって、彼女、綺麗だし・・」
「なに言ってんだ、おまえ」
「で、でも、一度も見たことないよ」
「バカ! お前、運が良かったんだよ。うん。そう。お前はホントに運がいいやつだよ」
「え? そんなヤバい人なの?」
 頬っぺたに指で斜めに線を入れた。
「シッ! そんなもんじゃねえよ」
「じゃあ、右にも左にも顔がきくってやつ?」
「なんだ、それ」
 田口は辺りを見回してから、「もっと、大物だよ」と小声で言うと、「バカ! おとなしくしてろよ!」とぼくの胸を叩いた。
 素早く会話を中断して、自分も握ったばかりの寿司を調達してきてから、顔を近付けて小さな声で言った。
「いいか、いい加減にしとけよ。もう潮時だと感じたら、おまえ分かってるよな? どうすればいいか。どこへでも行けるだろ、おまえなら。それから・・」
 向こうでさっきまでキャピキャピと笑っていた女の子たちの中で、ひとりだけこっちを見ている女の子がいる。きれいだ、が、聖子に比べたら見劣りする、と思った。
「それから、お前。あの子・・」
 田口は、急いでぼくに話すことは全て話してしまいたいというように続けた。
「あの子、わかるだろ。お前が俺んちから出てった日に来てた子。あの背の高い子。なんて名前だったっけ。そう聖子って言ったな。そう。一度聞けば忘れない名前だよな。あれから、うちに来たんだぜ。お前の居場所が分かったら教えてくれって。それから、何度も電話してきてさ。お前がな、加奈子さんの所にいるってことは、言わなかったけどな」
「え、どうして?」
「まずいだろ、先生なんだから」
 田口はぼくが加奈子の所にいる事を知っていたのだ。それなのに、なぜぼくをかばってくれたのだろう。それに、平気だったのだろうか。つまり、田口と加奈子はなんの関係もなかったのだろうか。
「何度も電話してきたんだぜ。お前、何かしたんだろ。あの子に」
「何もしてないよ。ただ・・、お金借りただけだよ」
「え? 金か。おまえ、金借りたのか。あの子から。それだけか? それより、あの子、お前に・・」
 そこに加奈子が近づいてきた。
「あら、再会したのね。お二人とも」
 田口は社交的な笑い顔を作って加奈子を見た。
「この子に、あたしのボディー・ガードになってもらう約束したのよ」
 いつもより胸の開いた真っ白いブラウスを着ている加奈子は、ぼくを見て、得意そうに田口に言った。
「こんな優男で大丈夫かなァ」
 田口が笑った。
「大丈夫よ。ね。いざというときはナイフ使うの上手いのよね。あなた」
 田口は、加奈子がぼくのことを親しげにあなたと呼んだのと、ナイフという言葉に一瞬ぎょっとした表情を見せた。
「えっ? ナイフ?」
「そう。ほら、これ」
 大勢の客に囲まれて、いつもより過激にふるまっているように見える加奈子は、寿司職人のまな板の上に置いてあったぺティナイフをぼくに手渡した。
 がやがやしていた会場が、急に静まり返った。
 今日の主役である加奈子が、会場で一番若い男のぼくにナイフを渡した瞬間、一斉に皆が過激な現代女流アーティストの方に注目した。いったい何が始まるのか、どんなパフォーマンスが演じられるのか皆が一斉に会話を中断して注目する中、ぼくはそれを握ると、
「危ないぞ!」
 誰かが大声で叫んだ。しかし、その声には、危ないことを期待している響きがあった。
 なんでこんなときに突然パフォーマンスを演じなければならないはめになるのだろう。でも、アートのオープニング・パーティーなんてなんでもありのような雰囲気だ。とくに今日は、色々な人が来ている。金髪の白人、黒人、イスラム系の外国人も見える。独特の雰囲気でパーティーが盛り上がっている。そして、今、ぼくは皆に注目されている。さっきぼくを見た女子大生の子も注目している。ここで何もしなければ〆がつかないだろう。
 絵の架かっていない壁をめがけて、手に持ったぺティナイフを思い切って投げつけた。勢いよく真っ直ぐに飛んだナイフは、真っ白い壁に見事に突き刺ささった。
 どよめきの後に、一斉に拍手と歓声が上がる。
 加奈子の咄嗟の思いつきのような演出は見事に成功した。過激な現代アートの会場にふさわしい突然のパフォーマンスに、来客は満足げにさっきよりも一層活気付いて、再び会話を始めた。
 そのとき、興奮しているぼくに、白髪交じりの中年男が近づいてきた。
「なかなかやるじゃないか!」
 長髪を後ろで一本に結わき、高級そうな黒のスーツを着ている。ところが、上着の前ボタンを外しているから、太った腹が醜く突き出ているのが丸見えだ。でも、実際は、太鼓腹のウエストに巻いた派手なダイヤ入りのベルトを目立たせたいから、わざとそうしているのだ。
「きみもアーティスト?」
「いいえ」
「そう。じゃあ、田口さんと同じ舞踏家?」
「いいえ」
 話に乗ってこないぼくに白けて、気分を損ねた男に、横にいた田口が助け舟を入れた。
「オレが昔飼ってた犬ですよ。狂犬だったのが、すっかり加奈子さんに躾けられて、今ではまるで舎弟のように彼女に従順になったんですよ、なっ?」
 そう言ってぼくに同意を求めたが、田口の言い振りにはムカついたので黙っていた。ところが、この成金風の男は、面白そうに身を乗り出して笑った。
「ほう」
「今じゃ、加奈子さんのボディー・ガード役だそうですよ」
 田口はわざとくだけた口調で冗談めかして言った。
「じゃあ、加奈子さんに危害を加える奴がいたら、今みたいにナイフでグサってか?」
男も冗談で話を盛り上げようと乗ってきた。
「でも、本当は、きみが守られちゃうんじゃない?」
 この男の喋るのを聞いているとなぜかムカついてくる。しかし田口はこの男の冗談に社交的に笑いながら同意した。
「たしかに、加奈子さんは強いもんな」
 いったい誰だかわからない男も、田口と同じように加奈子のことをよく知っているような口調で、面白そうに笑って続けた。
「加奈子さんがもうちょと早く生まれてたら、ヘルメット被ってマシンガンぶっ放してただろうね、絶対、絵なんか描いちゃいないよ」
 二人ともワインの入った紙コップを片手に持って、赤い顔をして笑っている。
「あら、失礼ね。あたしは重信房子じゃないわよ」
 横にいた本人が、冗談とも本気ともとれない真顔で言いながら、話に加わってきた。
「そりゃ、加奈子さんはあんな兵隊じゃないものな」
 田口が言うと、男も笑いながら頷いた。
「加奈子さんなら、重信房子を顎で使ってただろうな。でも、現代では、アートの世界でゲリラするしかないってわけか。いや、今じゃ、ゲリラなんて死語かな、でも、テロリストなんて言ったらもっと失礼だしな。いや、失礼、失礼」
「あなた、何してる方ですか?」
 ぼくはこの白髪の長髪男に挑発的に問い質した。すると、田口がそれをたしなめるように言った。
「ハハハ、彼女は絵を描く人。この人は絵を売る人。なんちゃって・・」
 それを聞いて、男も満足そうに笑った。
 成りはやばそうだが、しゃべるとつまらない冗談で人を笑わせようとするタイプの無害な中年だ。しかも、“成金”以上の哲学は持ち合わせていないらしい。こんな男は、誰にも受けない冗談をパーティーで連発して、自己満足してるだけの“芸術商売人”だ。
 加奈子さんの絵も売っているんですか、と訊くと、いやいや、私が扱う前に全部売り切れですよ、と真面目に応えた。
 そこに黒縁の眼鏡を掛けて髪を金髪に染めた背の高い男が近づいて来た。見るからにインテリで理屈っぽそうな風体をしていて、皮肉っぽく笑いながら、話しに加わってきた。
「それで、山下さん。シロ・タカヤマは売れましたか?」
 インテリの評論家にお決まりの文句で挨拶されたのだろうか、芸術商売人は戦う前に白旗を上げた将軍のように応えた。
「いやー。彼には、ん億円も、儲けさせてもらいましたよ」
 黒縁の眼鏡の男が小馬鹿にしたように笑うと、白髪の男はしゅんと黙ってしまった。現代アートの議論となっては、この金髪の男にはかなわないらしい。逆に“絵を売る人”は、論評などどうでもいいのだろう。芸術は金に換算できるものでしかなく、数字に還元できない価値など論ずること自体が無意味なのだ。一方、インテリの評論家は、芸術を金に還元して語ることしかできない商売人を小馬鹿にしている。大衆向け画商との会話が早くもすれ違ったのを悟ると、金髪に黒縁の眼鏡の男はぼくを見て、話を振ってきた。
「きみ、この絵の男に似てるなあ」
 大作が並んだ壁の脇、ちょうど果物ナイフが刺さった壁の横に、ぼくを描いた五十号の油絵が架かっていた。確かにそれはぼくを描いたあの“小便小僧のアポロン”の絵だった。いつか誰かに気付かれるだろうと思っていたが、この現代アートの評論家が最初に目をつけた。
「きみ、加奈子さんの新しいモデルさんなの?」
 答えないぼくを見て、田口が言った。
「わたしは、もうお払い箱ですよ」
「そう。それにしても、これ、傑作だなあ」
 黒縁の眼鏡の男は加奈子に言った。
「めったに褒めない上林さんにしてはめずらしいわね。今日はどうかしたのかしら」
 加奈子は皮肉っぽく金髪の評論家に言った。しかし、それには応えず、真面目な口調で「失礼ですが、いくらで売れたんですか?」と、ぼくを描いた絵の値段をぶしつけにも作家に訊いてきた。しかし、黙って答えない加奈子を見て、「いやー。これは、また平山加奈子の相場がぐっと上がるだろうなあ」と、お世辞ともとれない言い方で持ち上げた。
「タイトルがキッチュだなあ。“成人したキューピッド”って、なんか可愛らしいけど、なかなか女性にはこのポーズで、このファロスは描けないですよ。そんなこと言ったらジェンダー・ハラスメントって言われそうだけど、さすが、加奈子さんだな。それに、こんなにきれいなファロスは今まで見たことないですよ。写実的に描かれているところがなかなか過激で、むしろ挑発的かもしれないな、このファロスは、ポスト・ジェンダー的な意味で・・」
 評論家の長広舌を聞いていた白髪の長髪中年男が、金髪の評論家に同調するように言った。
「フランスのポスト・モダンなんて、もう古いものねえ。あのマッチョなラカンなんかもう話題にも上らないしね」
「いや、そんなことないですよ。フーコーやデリダは今でも最先端ですからね。しかし、フロイトがこの絵を見たらびっくりするだろうなぁ。ファロスを女性が美しく描くことそのものが象徴的なんですよ。つまり、絵画の脱ジェンダーという意味で・・」
 上林が真面目に話し始めると、中年男は、突拍子もない間合いでその話を遮った。
「フランス人はともかく、日本人のペニスの平均ってどれくらいか、知ってる?」
 上林は、笑いながら、即座に話題を変えて応えた。
「勃起時で十三センチだったかな」
「ほう、そんなもんですか。だとすると、オレは日本人の平均以上だな。フランス人並みかな? アハハハハ!」
誰も笑わないのを見ると、中年男は続けた。
「彼のはどうかな? 絵だと平均よりデカく見えるけど、デフォルメしてるだけかもしれないしなあ」
「そうですか? ぼくには平均にしかみえないけどなあ・・アハハハハ!」
 上林も話しに乗っかって笑っている。
 下品な話題で急に盛り上がって、わざとぼくを標的にしてからかっているように感じたから、また目を引くパフォーマンスでもして脅かしてやろうと思いながら機を窺っていると、それに気付いた加奈子は眉を潜めて、毅然とした態度で言った。
「彼、若いから、あんまりからかわないでくださいね。もうやりたくないって言われちゃうから」
「きみは彼女となにやったの?」
 中年男が間髪入れず揚げ足を取って、耳が痛くなるような大声で笑った。
 盛り上がっている作家とモデルと評論家たちの集まりを、向こうからじっと見つめている女の子がいた。彼女は、ぼくがつまらなそうにしているのを見ている。彼女を見ていると、ぼくが一度だけデッサンのモデルになったあの美大の予備校で出会った聖子のことを思い出す。あれから一度もあそこへは行かなかった。それに、彼女ともあれから一度も会っていない。あれからあのデッサン講習会では、また田口がモデルになって皆が絵を描いていたのだろうか。もう二度と皆の前で全裸のモデルになるのはまっぴらだと思っていた。でも彼女とまた会えるなら、またモデルになってもいい、そんな気がしていた。
 小嶋聖子。きみは、あの夜、デッサン講習会の帰り、ぼくが居候していた田口の長屋に来た。そして、きみは、電車賃の無かったぼくに金を貸してくれた。だから、ちゃんと返してあげるよ。明日、加奈子の豪邸の、あの大きなアトリエでまた服を脱いで彼女だけのモデルになれば、バイト代と称して小遣いをもらえる。そう、頼んでもいないのに、彼女はぼくに金をくれる。それは、期待している以上の金額だ。そして加奈子と交わる。彼女とそんなことをするのは、しかたのないことなのだ。でも、ぼくはきみを忘れていない。ぼくがあそこに居る限り、彼女と交わるのはしかたのないことなのだ。男と女だから。でも、加奈子と交わると必ず、あの男を殺してくれと言う。なぜ元の旦那を殺せと言うのか、ぼくには分からなかった。それにその男がどんな奴なのかもわからなかった。でも、今日、田口から聞いて初めて知った。そいつはとってもヤバイ男なのだ。暗黒街のボスだろうが、ヤバイ物をさばいているディーラーだかフィクサーだか知らないが、ぼくはいつかそいつに会いに行くだろう。社長だか投資家だか知らないが、金が腐るほどあることだけは確かだ。その金と権力で加奈子を今でも支配している。一見自由な彼女は、その男に何もかも、精神まで服従させられているのだ。だから、ぼくがその男に会いに行くまで、加奈子はその男を憎み、きみはぼくを憎むだろう。でも、いつかぼくがその男を殺したら、いや、逆にぼくが殺されたら、きみは気付くかもしれない。ぼくが本当に欲したものが何だったのか。そして、思い出すだろう。この絵の中で、小便小僧のキューピッドのように、成人してまでファルスを突き出して放尿しているアポロンは、本当はダビデを真似ているぼくで、彼がルネッサンスにでもできなかったこと、生と性の解放を、ぼくは教室で立ったまま性器を勃起させてまでやってみせたことを・・。



 
 
 
 
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