2008年12月06日

23 この世の仕組み


 
「もしもし」
「はい」
 中年の女性の声。たぶん聖子のお母さんだろう。なにか用があるのか、といったような無愛想な返事。
「聖子さんはいらっしゃいますか?」
「まだ帰っていませんよ。あなたどちら様」
「あ、ああ・・・」
 二の句が継げずに黙っていると、急に思いついた。
「あのー、聖子さんと同じ中学の、同級生の紫と申します。
 あの、同窓会がありまして、
 聖子さんにご案内を送りたいのですが、
 住所を教えていただけませんか?」
「本人から訊いたらどうですか。帰ってきたら電話させるので、電話番号は?」
「あ・・あ、」
 咄嗟に訊かれても、田口のこの黒電話の番号がいくつなのかわからない。
「あ、あの・・・次の人に連絡しなければならないので、できれば住所を教えていただけませんか」
「だから、帰って来たら本人から電話させますから!」
「わかりました。聖子さん、何時頃帰られますか」
「さあ。今日は絵を描きに行くから遅いと言ってたけど・・・」
「えっ、絵ですか? 絵を描きに行かれているんですか?」
「そうですけど・・・電話番号は?」
「あ、××××ー××××です」
 思いついた適当な電話番号を言った。
「あ、あの、聖子さんによろしくお伝えください」
 無愛想に無言で電話が切れた。
 聖子の住所はわからない。聖子に会えるかもわからない。でも、そうか、今日はデッサン教室の日だったのか。忘れていた。だとすると、田口もそこに居るのだろうか。だとすると、当分ここには帰ってこないはずだ。
 受話器を置き、血で固まったミッソーニのタオルがグルグル巻きになった左腕を見つめた。
 いったい自分は何をしているのだろう。
 何をしたいのだろう。
 何をしているのかわからない。
 何をしようとしているのか、わからない。
 何をしたいのかもわからない。
 でも、冷静に、ここで整理しなければならない。
 さもないと、もう、自分という綱渡りから転落してしまいそうだ。
 
 ぼくは人を殺した。そして、加奈子の家に放火した。それに、左腕にこんなに傷を負っている。だれにやられたわけでもない。ぜんぶ自分でやったのだ。なんてバカなんだろう。いっそ自分で自分を殺せばよかったのに。でも、ほんとうは、そうしようとはちっとも思わなかった。ぼくがぼくを傷つけ、死に至るまで自分の肉体を傷つけたとしても、ぼくはぼく自身を消すことができないのを知っているから。いや、厳密には、やってみなければわからない。でも、確信がある。ぼくはぼく自身を物理的に消すことはできても、ぼくは、ぼくの中にある本能が、闘争本能と逃走本能が、一斉に起動するのを自覚している。、痛みと伴に・・。そしてぼくは、その”本能”が、効率よくプランを実行できるように、できるだけこの”自我”と”思考”を使わなければならないのだ。そうだ! さあ、考えろ! 考えて実行しろ! どうすればいい!
 
 今ならかなりこの世の仕組みがわかってきた。この世の仕組みとは、マックジョブの時給を単位とした貨幣価値で構成されている。今、ぼくがひとりでこの東京で、この世の仕組みの中でサバイバルするためには、街にうろつく猫を掴まえて皮を剥ぎ、それを焚き木で焼いて食べるのではなく、100円マックバーガーを一つ買うためのアルバイトをマックでして、最低の時給を得、それで食料と等価の貨幣を得、それと食料を交換するしかないのだ。猫を殺して肉を焼くために、焚き火をする場所はこの都市にはない。焚き火をしているだけで警察が来るだろう。だから、都市の中では、生の肉を得るために、自分で狩りをしてはいけないのだ。マックのバイト、ビデオ屋の店員、コンビニのレジ打ち、すなわち誰かに雇われなければならないのだ。最低限の生活が送れるだけの金を得るために。そして、それ以上の生活がしたかったら、なにかにチャレンジするしかない。タランティーノがビデオ屋の店員をしながら脚本を書いて、アメリカン・ドリームにチャレンジしたように。ハングリーになってチャレンジするしかないのだ。それが企業に就職しないで選択できる唯一の生き残りの道だ。さもなければ、すでに法人登録されている”職業”にチャレンジするしかない。人生ゲームで就職コースを選ばなかったなら、この世の仕組みの中では、適当なバイトを捜さなければならない。そして、1日24時間の内の8時間ほどを切り売りして、残りの時間を自由に使うのだ。”生活費”とは、生きるのに必要なカロリーを得るに足る金、ホームレスにならない程度に寝泊まりできる場所を確保するための金、ある程度の清潔と保温が保てるだけの衣服を維持できるだけの金、その合計額のことであり、それを得るために、バイトの時給を計算して1日何時間働かなければならないか算出する。そしてそれを1日24時間から差し引けば、その残りが自由に使える時間となる。でも、当然、自由に使える時間でなにをしてもいいことにはならない。いかなる理由であれ、人を殺せば監獄にぶち込まれる。自由に使える時間で、この世の仕組みを変えてはならない。そうしたら、そうしていることが他人に知られた瞬間、監獄か精神病院にぶちこまれる。ぼくには、自由な時間があるが、それを自由に使うだけの金がない。そして、自由な時間も、もう限られている。犯罪を犯したのだから、監禁されるだ。それまでは自由だが、自由な時間ですら、この都市の中では”消費”しなければならないのだ。五感で楽しむ”文化”を消費しなければならない。すなわち、DVD、音楽CDをレンタルする。そうすると、映画業界が儲かる。そして、タランティーノがアメリカン・ドリームを実現し、オスカー俳優がレッドカーペットの上を歩き、高級車に乗って、五つ星ホテルのクリスタルのロビーに到着するのだ。ほら! 最初の話と繋がっただろ! タランティーのだって、この世の仕組みの中で暮らす”飼い慣らされた犬”なんだ! すなわち、自由時間には、自由になった金を消費して、五感を楽しませているだけの奴らだ。そう、視覚、聴覚を刺激して快感を得てるだけ。結局、脳化学に還元され得る幸福”しか”、都市にはない。そして、その類の”幸福”は、コマーシャリズムと企業資本によって徹底的にマーケティングされ、大量生産されている。社会的欲求不満をリサーチしてそれを解消するように周到に生産された非現実であり、音と映像が記録されたメディアを大量にコピーして売りさばく。”著作権”と称して。そして、いかに多くのコピーが売りさばかれたかで、価値が決まり、少量生産された文化はアングラであり、レベルが低いB級コンテンツでしかない。しかし、それとても、レベルが低いB級コンテンツのゴミの山から自分の感覚に合ったコンテンツを探し出して快楽を得る、所謂”オタク”すら生み出されていく。オタクには、つまらないものを見、聞き、”探し出す”膨大な時間が必要になる。そして、いつしか、都会に溢れる”情報”をただただ消費することだけが、快感になっていることに気付く。ところが、それもまた、A10神経系に電極を埋め込まれた猿と同じで、”感覚の消費”でしかない。消費から果たして幸福は生まれるのだろうか。消費者は、永遠の欲求不満の内に飼いならされ、条件付けられ、中毒にされている。一方、資本家、資産家は、自由を消費によって獲得したりはしない。金持ちは生まれながらにして幸福であり、雇い人である労働者に消費させることによって幸福を得ている。そして、消費者である労働者には職業選択の自由など永遠にないのだ。なぜなら、”選択しない自由”がないのだから。消費者は間違った方しか選択できない。選択すると必ず間違える。なぜなら、”選択の自由”という催眠術によって、自分は自由に選択していると思いこまされながらただ消費するだけで、”この世の仕組み”から抜け出ることに”自由な時間”を使おうとは、ついぞ気付かないように仕組まれているからだ。
 ぼくは、こんな都会にいる。狂犬がこんな都会に彷徨い込んでしまったから、人を噛んでしまった。そう、それだけのことだ。実際、人を殺したからといって、もし殺した奴が死刑囚にも勝る犯罪者だったらどうなるのか。実際、そいつは犯罪者だったじゃないか。絶対捕まらない犯罪者。そいつをただ殺しただけだ。夏になったら蚊を殺すように。一匹殺しただけだ。そして、ぼくは、正直な話し、蚊を殺すほどにも罪悪感を感じていない。道徳的であることがこの社会の規範を保っている。でも、そもそもこの社会の規範が反道徳的であったらどうなるのだろう。一人の人を殺すのは犯罪だが、戦争で何万人も殺せば英雄になる。その戦争を指導した政治家は、戦争に負ければ裁かれるが、勝てば国民に称賛される。当たり前のこと? それがあたり前のこと? だったら、ぼくが人を殺して平気なのもあたり前だ。加奈子のリストの二番目は、某メガバンクの会長だ。なんとか経済団体の会頭も務めていたから、ひと頃はよくテレビのニュースにも出ていた。なんで加奈子のアートをコレクションしているのかわからないが、きっと企業の中に文化支援とは名ばかりで本当は投資目的である美術作品をコレクションしている部門があって、現代美術の収集にも力を入れているのだろう。テレビで見たこいつの顔は、およそ現代美術に似つかわしくない、垢抜けしない醜いジジイで、金の臭いばかりを嗅ぎ回って投資し、儲けを数える事だけが生き甲斐のような、薄汚いW経済人Wに見えた。何故この死に損ないがリストの二番目に書かれていたのか分からないが、たぶん、ニューヨーク辺りの巨大資本に繋がっているのだろう。実際、こいつらのグループがアメリカではインディアンにウランを採掘させ、世界的に原発を輸出し、オルタナティブエネルギーの促進を阻止してきた。なんかの雑誌でそんな記事を見たような気がする。そうだとしたら、殺し甲斐があるが、ぼくが殺さなくたって、いずれ近い内にくたばるだろう。でも、こんな汚物は、ぶっ殺されることに意義があるのだ。世界中のゴミどもに警告するために、見せしめにすることに意義があるのだ。ただ、そのためには、それを実行するためには、まずぼくが生き残る必要がある。これからどうやって生き延びるか。それを考えていたのだ。でも当然、道徳とか法律に照らし合わせて考えたりはしない。これからどこに行ったらいいのか、それだけだ。
 
 もし今、美術の予備校に行ったら、もうとっくに正規の授業は終わって、建物の中は暗く静まり返っているだろう。でもひとつだけ明かりの点いている教室があって、加奈子が有志の生徒を集めてやっているデッサン教室が開かれているだろう。否、もうすぐ終わる頃かもしれない。そこに聖子が来ているだろう。そして、たぶん、きっと、田口もそこにいてモデルをしているかもしれない。でも、先生の加奈子は、いないだろう。なぜなら、ぼくはあの男を殺した。虫ケラを殺すように殺した。そのことを、加奈子が本気にしたかどうか分からないが、加奈子の家の吹き抜けの玄関に掛けられた装飾的なレースのカーテンに点けた火が消えずに天井に燃え上がり、建物に燃え移り、もう人手では消すことができないほど燃え盛っているとしたら、加奈子が気づいたときにはもうすでに逃げ場を失って、あの豪邸もろとも炎に呑み込まれて、今頃、焼け死んでいるかもしれないから。 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by hoshius at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 狂犬革命 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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