2008年12月07日

22 最後は脳に染みついた場所に戻って来る



 ほかに行く宛てもない。電車を乗り継ぎ、田口の長屋に着いた頃、日が西に沈みかけていた。
 裏口に回り木戸の前に立つ。まだ田口は帰って来ていないようだ。雨ざらしのベニヤの扉は、蹴ればすぐに壊れてしまうだろう。それでも、この粗末な長屋をドロボウから守っているのだろうか、ちゃんと南京錠が取り付けてある。その鍵は今はもう使われていない牛乳箱の中に隠してある。ザラザラに表面がささくれた板木の蓋を開け、真鋳の鍵を取り出す。南京錠を開け、狭い勝手口から台所の板敷きの床に上がる。
 今にも抜け落ちそうな板敷きの床をギシギシ音を立てながら、ブヨブヨの畳の上に西洋絨毯を敷いた居間にたどりつくと、そこに突っ立っている。
 古い木製のちゃぶ台の脇に黒電話が置いてある。ぼくがこの長屋に居候していたときとまったく変わらないレイアウト。あの頃がまるで何十年も昔の出来事だったように、懐かしくフラッシュバックしてくる。あのとき聖子はぼくの横に座り、ビールが置かれたこのちゃぶ台の向こう側には田口が座っていた。田口からめぐみのことを聞かされた聖子は怒って、この長屋を出て行った。それを追いかけてぼくもこの長屋から外に出た。それが最後だった。
 半乾きになった血で重くなったミッソーニのタオルがグルグルに巻かれた左腕。傷口に激痛が走ると同時に思い出した。あの台風の夜の聖子のゆがんだ顔、唇。憎しみにひきつりながらぼくを睨みつけた目。びしょ濡れのアスファルトの上に尻餅をついてひっくり返ったときに開いた太もも。エラ鹿のようにおもむろに立ち上がると、叩きつける雨の中をぼくを罵倒して走り去った姿。
 聖子に会いたい。でも、あれほどぼくを憎んだのだから、もう二度とぼくを好きになることはない。二度と、絶対に。
 黒電話の横にメモ紙の束があって、田口の知人の電話番号が書いてある。ぼくはその束をめくってみた。もしかしたら聖子の番号があるかもしれない。加奈子のパーティーのとき、田口はぼくに言った。聖子がぼくの居場所を捜していたと。そして、何度も訪ねてきたと。いったい何故聖子はぼくを捜していたのだろう。復讐したいのだろうか。殺したいのだろうか。殺したいほど、ぼくを憎んでいるのだろうか。
 田口は聖子と連絡を取り合っていたのかもしれない。加奈子のデッサン教室で二人は頻繁に出会っていたのかもしれない。画学生とモデルとして・・・。
 メモ紙をめくってみた。予想は当たっていた。ビンゴ! 聖子の電話番号が書かれたメモ紙が見つかった。メモ紙の束を2,3枚めくると、鉛筆で大きく”聖子”と書かれた下に、03から始まる電話番号が書かれていた。
 そうだ、聖子に金を返さなきゃならない。
 ジーンズの右ポケットには、丸めた札束が入っていた。左ポケットには100円ライターを突っ込んだ紙パッケージの煙草が入っていた。左ポケットから湿った煙草のパッケージを左手で取り出し、4,5本残っていた煙草のうちの1本を右手で取り出し、口にくわえて100円ライターで火を点けた。それから空いた右手で受話器を掴み、肩と頬の間に挟んでから、空いた右手で旧式の黒電話のダイヤルを回した。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by hoshius at 00:00| 狂犬革命 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。