2009年01月16日

3 聖子があの夜、長屋に来た理由



 
 それは、ぼくが初めて全裸のモデルになったデッサン講習会の帰りのことだった。先生からもらった封筒の中身のことが気になって、どこをどう歩いたのか覚えていない。気付くと、もう駅に着いていた。
 出入り口は線路の下で南北に分かれているが、改札は一つしかない。ここで待っていれば、先生もここに来るだろう。そうしたら、なぜあんなことをしたのか、直接、事の真相を問い質すことができる。でも先生が来る前に、他の生徒たちに会ってしまうかもしれない。やっぱり学校に引き返そうか、それともここで先生を待とうか。どっちにしろ、またあのデッサン講習会のメンバーと顔を合わせてしまうのは嫌だった。いっそのこと、メモに書かれた先生の住所まで先回りして行ってみようか。メモには“白金”と書かれていた。いったいどの駅になるのだろうか。あれこれ考えながら路線図を見上げていた。
「お疲れ様でした!」
 急に後ろから声を掛けられてびっくりして飛び上がった。振り返るとそこに女の子が立っていた。顔に笑みを浮かべてぼくを見つめている。 背が高いし、ブルージーンズのミニスカートを穿いているからすぐに分かる。デッサン講習会で一番前にいてデッサンしていた女の子だ。
「どちらに帰るんですか?」
「え? あ、あ、荻窪」
「えっ、うそー。あたしも、そっち方面なんです」
「え?」
「いっしょに帰りませんか」
「え?・・ああ」
 彼女につられて慌てて切符を買ってしまった。そして、惰性で彼女と一緒に改札を通っていた。
 ぼくが人をよけて早足で歩くと、彼女も肩を並べてついて来る。ぼくが階段を駆け上がると、彼女も遅れまいとして息を切らして階段を駆け上がって来る。そして、あっという間にホームに出たが、電車は来ない。黙ったままつっ立っているぼくの横で、気まずそうな彼女が何か話すきっかけを捜している。
「あ、あの・・」
 彼女はふりしぼるように言った。
「今度、いつ来るんですか?」
 真っ白い半袖のポロシャツの裾を入れたスカイブルーのミニスカートのウエストが細くくびれている。その腰が、やたらに高い位置にある。手足がチューインガムを伸ばしたように細長いスタイルのいい彼女は、真っ白い脚をむき出しにしてホームに立っているから、周りから目立つに違いない。そんな彼女がぼくと一緒にいるのをあそこにいた男子たちに見られたら嫌だなと思いながら辺りを見回しているぼくに、彼女はまた気兼ねしながら訊ねた。
「あのぉ。来週も来るんですか?」
 ぼくは彼女の方を見てあっさり答えた。
「いや、もう来ないよ。今日は、ただ、田口さんの代りに来ただけだから」
「え? 田口さんの代わりなんですか」
 わざと驚いたように、彼女は言った。
やっと電車が来て車両に乗り込んだが、二人は空いている椅子には座らず、ドアの横に立っていた。
「もしかしたら、モデルやったの、今日初めてですか?」
「うん」
「やっぱり・・」
「え?」
 なにが「やっぱり」なのか訊こうと思ったが、彼女は慌てた様子で言った。
「あ、あの。若いですよね・・」
「え? ああ、まあ、同じくらいかな」
「え、じゃあ、十九とか?」
「うん」
「じゃあ、あたしと同じですね。高校卒業したばっかりですか?」
「うん」
「大学行ってるんですか?」
「いや」
「じゃあ、今、何してるんですか?」
「え、べつに・・」
「田口さんと、お友達なんですか?」
「ああ、居候してるだけだけど・・」
「田口さんって、暗黒舞踏やってるんですよね」
「うん。なんで知ってるの」
「え、だって、みんな知ってますよ。有名だもん」
「そんなに有名なの」
「いや、そういう意味じゃなくて、あのクラスでは有名ってことですけど・・」
「あっそうか。じゃあ、きみも暗黒舞踏好きなんだ」
「ええ、まあ。見たことないけど、なんか、面白そう」
「なにが」
「一度見てみたいんですよね」
「なにを」
「え? 暗黒舞踏」
「あ、そう。暗黒舞踏・・」
 ぼくは、窓の外で暗くなって流れて行く景色に気を取られていた。ぼんやりと、あの先生のことを考えていた。彼女も、この子も、田口のことをただ〔知っている〕だけなのだろうか。
「じゃあ、あなたも、やってるんですか?」
「え、何を?」
「あのー。暗黒舞踏・・」
「いや、ただ、居候してるだけ」
「そうなんですか。なんか、変わってる」
「え、ぼくのこと?」
「そう」
 二人はドアの脇に寄りかかって立ったまま、身体がちょっとでも触れないように意識してお互いに距離を置いている。電車が揺れると、手でうっかり相手を掴まないようにバランスをとりながら、お互いに下を見て、相手の足を踏まないように気をつけている。
「きみも、変わってるよね」
「え? あたしが。どうして?」
「だって、普通、こんなふうに声かけてこないでしょ。知らない男に」
 また、電車がガタンと揺れた。
「あのー。あたし、文学部受験したんだけど、落っこっちゃって。それで、やっぱり美大にでも行こうかなと思って・・。だから、やっぱり変わってるのかも・・」
「そうかな。そんなことないと思うよ。どっちでもいいんじゃない。美大だって文学部だって」
「そうですか? あたし、あまり勉強好きじゃないから・・」
「じゃあ、ぼくと同じだね」
「えっなにが?」
「いや。勉強嫌いなのが・・」
 電車が軋んで、相手の声がよく聞きとれない。
「あっそうですね。あたし、そのまま高校の上の短大行けたんだけど、やっぱり大学、受験したいと思って・・。そうしたら、失敗しちゃって。一浪ですよ。なんかもう受験勉強するのがいやになっちゃって・・。絵でも描きたいなって思って」
「そう」
「大学は行かないんですか? これからも」
「え、ぼく?」
「そう。大学 もう 行かないんですか? これからも」
「うん。べつにしたい勉強もないし・・」
 電車が駅に着くと、帰宅のサラリーマンが乗り込んできた。二人は入ってくる人を避けてドアの横に立ったまま、黙っていた。
 早く駅に着けばいいと思った。この子と、もうこれ以上話すことがないような気がした。たぶん、それ以上の何かをお互い期待していたのかもしれない。でも、沈黙したまま、気まずい空気だけが流れるまま、電車だけが走り続ける。そして次の駅が近づいてくる。駅についたらぼくは、電車を降りる。彼女はどうするのだろう。ついてくるのだろうか。それともそこで別れるのだろうか。だんだんとなにか喋らなければならないという強迫観念のようなものが突き上げてくる。
「ねえ。どこで降りるの?」
「あのー。あたしも、荻窪」
 電車がガタンと揺れた。
「あ、そう。じゃあ、同じだね」
 タイミング悪くふらついたぼくは、彼女と身体が触れ合った。それも、彼女の胸の先がぼくのあばら骨に当ってしまった。意外に彼女は嫌な顔もせずにぼくの目を見た。ぼくは慌てて彼女から離れた。
 彼女の胸の先端があばらに当った瞬間、ぼくは快感を覚えた。彼女はぼくの目を見るとすぐに視線を落として、恥ずかしそうに黙った。
「ねー。一緒にお茶でも飲まない?」
 せっかく彼女とここまで来たのに、そのまま別れたら彼女に悪いような気がした。
「え? どこで?」
「荻窪」
「次ですか?」
「そう。だって、降りるんだろ、荻窪で」
「そう」
 ポケットに入っている千円札で、とりあえず何か飲めると思った。
 黙っている彼女と一緒に電車を降りた。そのままついてくる彼女と、なり行きで、小奇麗な喫茶店に入った。

「そう言えば、名前なんて言うの? まだ聞いてなかったよね」
「小嶋聖子」
「聖子?」
「そう、聖書の聖」
「いい名前だね」
「そうですか? あたしあまり好きじゃないんですよね」
 二人は、お互いに言葉をつまらせたまま、デッサン講習会のことを思い出していた。また画家とモデルになったように対面したまま、お互いを見つめている。
「きみは神を信じてるの?」
 いきなりぼくの口をついて出た言葉は、彼女を驚かせたらしい。
「えっあたし? あまり考えたこともないけど・・。きっと、信じてないと思う。だってあたし、クリスチャンじゃないもの」
 真面目に答えてくれたことがうれしかった。
 聖子という名前をつけた両親が、クリスチャンなのか訊いてみようと思ったが、ウエイトレスが水を持ってきたので止めた。
「何にする?」
「あたし、ホットコーヒー。あなたは?」
「え、ぼく?」
「そう。あなたは?」
“あなた”と急に言われてドキッとした。
「えーと、じゃあ、ぼくはアイスティーにする」
 咽喉がカラカラだったことに気付いて、目の前に出された水を一気に飲み干した。
 驚いてぼくを見ている彼女の顔は四角いホームベース型で、エラが張っている。前髪を垂らしているせいで顔が横長に見える。その分、首は細く見えるのだが、姿勢よく背筋を伸ばしているので、よけいに首が長く見える。きちんと襟を折り曲げて着込んだ白いポロシャツの二番目のボタンまで開かれた襟元から、白い肌の鎖骨が光っている。半袖から長く伸びた細い腕はテーブルの上で両肘をついて、細長い指を交互に絡めたまま、ぼくが何か言うのを待っているように、じっとぼくの目を見つめている。
 彼女の瞳は好奇心と期待に輝いているように見えたから、ぼくは言葉を喋ってみた。
「どこの高校行ってたの?」
 その割には、ありきたりのことしか思い浮かばなかった。
「えっあたし? ○○高。あなたは?」
「ぼくは都立だよ。都立××高」
「あたし、知ってる。あそこ、都立では進学校で有名ですよね。あたしには偏差値高過ぎ。それに親に私立に行けって言われてたから」
 彼女はぼくに自分のことを正直に話してくれているのが分かる。だから、それがうれしかったし、そんな彼女に対しては、こっちも誠実に話さなければならないような気がした。
「なんで大学行かなかったんですか。あの高校で大学に行かなかったなんて、やっぱり変わってる」、とささやくように言う。
「そうかな」
 彼女の額は、おかっぱ風に切りそろえられた前髪に覆われている。でも、前髪以外の横の髪は、艶のある長い直毛で、肩の下まで垂れている。その髪が喫茶店のクーラーの風に揺れる。
「ぼくは最低の成績で高校を卒業したんだ。ほとんど学校に行ってなかったから。それで、卒業した途端に逃げ出したんだ。この日本から。そして、ずっとカリフォルニアにいたんだ」
「えっうそー」
 口元が斜めに歪んだが、それがなんだかとっても色っぽく見えた。
「本当だよ」
「何してたんですか? そこで」
「うん。シャスタ山っていう山の麓にメンドシノっていうナショナル・フォーレストがあって、その中に、七十年代にできたっていうコミューンがあったんだ。当時のヒッピーたちが作った、自給自足のコミューンなんだけど、そこにいたんだ」
「え? そんな所、今でもアメリカにあるんですか?」
「うん。アメリカって言ったって広いからね・・。それより、私立の女子高って楽しかった?」
「うん・・そうね。キリスト教の学校だったんだけど、あたしは礼拝のときは眠くなっちゃった。だって、先生の話難しいんだもん。でもその先生とっても有名な先生らしくて、本も何冊も書いてるんだって」
「じゃあ、キリスト教の勉強になっただろ?」
「ちゃんと聞いていればね。でも、興味なかったから・・」
「どうして?」
「だって、宗教って信じることでしょ? 難しいことなんてわかんなくてもいいんじゃない」
「たしかにそうだね。でも、なかなか“信じる”ことができないから、あれこれ“考える”んじゃないかな、人間って、なかなか難しい存在なんだよね」
 聖子はつまらなそうに下を向いて、水の入ったコップを両手で持って見つめている。
「それで、なんで美大受験しようと思ったの?」
「そうじゃなくて、ちゃんと普通の大学行こうと思ったんだけど、なんか、最近気が変わって、と言うか、一浪するんなら絵でも描こうかなって思うようになって・・」
 彼女はまだ何か迷っているようにぼくの目を覗き込んだ。
「でも、美大行くの、親が反対しない?」
「親? わかんない。でも・・いい大学入れたいみたい。だから、あたし、内緒でデッサン勉強してるの。親は普通の文学部受けると思ってる」
「そう。女の子なんだから、そんないい大学行って就職しなくたって、結婚すればいいんじゃない」
「え? 結婚?」と言って、下を見て少し恥ずかしそうに微笑むと、目を上げて、ぼくの目を真剣な眼差しで見て言った。
「あなたは、高校卒業して、大学行かないで、カリフォルニアの山の中のコミューンに行ってたんでしょ。ねえ、そこで何してたの? サバイバルでもしてたの?」
「山を駆け回って、犬と遊んでた」
「えっなにそれ?」
 やっぱり彼女には、ぼくのしたことを想像できるほどの(詩人の)イマジネーションは持ち合わせていなかった、と思った。だから、彼女を少しからかってみたくなった。
「そこはね、マリファナ牧場だったんだ」
「え、牧場?」
「そう、ドラッグ栽培してたから」
「それって、農場なんじゃない?」
「いや、牧場だよ」
「え、どうして? マリファナって家畜じゃないでしょ? 植物でしょ?」
「ううん。家畜だよ。マリファナが大勢歩き回ってるんだよ。草を食んで昼寝なんかしてるんだ」
「やっぱり、変わってる」
「そう、ぼくが?」
「そう、なんか過激。だって・・」
 彼女はうつむいて口元に笑みを浮かべた。
 きっとデッサン講習会でのことを思い出しているに違いない。
 注文したホットコーヒーとアイスティーが運ばれてきた。
「あ、あたし、少しビックリしちゃった」
 ウエイトレスが行くと彼女は言った。
 どもって、自嘲気味に笑いながら、コーヒーカップの乗った皿を引き寄せると、彼女はうつむいてコーヒーに砂糖とミルクを入れた。
「ぼくが勃起したこと?」
 そうはっきり言うと、彼女はハッと目を見開いて顔を上げた。その顔は一瞬にして赤面した。
「う、う・・うん。あんなになってたの見たの、初めてだったから・・でも、別に、いいんじゃない」
「え? なにが」
「ううん。なんでもない」
 彼女は、音も立てずに、熱いコーヒーを口びるに吸い込んだ。
 柔らかそうな頬が萎んで、横長の顔が細長くなった。
「いつも、あの先生なの?」
「え、平山先生のこと? いつもは、違うわよ。石膏とか静物描いてるときは、あの先生以外にもいろんな先生がいるわ。あのクラスは特別なの。美大受験のクラスじゃないから」
「え、受験のクラスじゃないの? それってどういうこと?」
「平山先生が有志を集めてやってるクラスなの」
「え? 平山先生が」
「そう。美大の講師もしてて、普段は人物描いてて、なんか有名みたい。外国にもよく行ってるみたいだし、よく個展もやってて、あたしも行ったことあるけど・・。だから、石膏とか静物だけじゃなくて、本物の人体を描けなければデッサンにならないって言うの。ちょっとあの予備校では変わってる存在みたい。だけど、美術の世界じゃ有名みたいだし、校長にも一目置かれてるみたいだから、学校とは関係なくあの先生が有志でやってるの。あのデッサン会。学校の教室借りて」
「へー。そうだったんだ」
「だから、もう美大受かった人も来てるのよ」
「いつも男のモデルばかり描いてるの?」
「え、まさか。裸婦も描くけど・・。どうして?」
 聖子は言葉を切って、コーヒーを飲んだ。
「いつも、男性のモデルは田口さんなの?」
 ぼくは急に田口のことを彼女がどう思っているのか気になった。
「え? 田口さん?」
「うん。ぼくは今、田口さんの所に居候してるんだ」
「えー。そうなの」
 聖子は不思議そうに目を伏せてコーヒーをスプーンでかき回した。
「最近、と言っても、もう一年くらいになるのかな。田口さん見つけてきてから。先生が・・。それより前はずっと裸婦だけだったの」
「え? じゃあ男のモデルは田口さんだけだったんだ」
「そう。今日あなたが来るまではね・・。でも、女の人の身体よりも男性の方が描きやすいかな・・。筋肉がはっきりしてるから」
 聖子は少し赤らみながらコーヒーカップを持ち上げようとして取っ手を掴んだ。
「そう。田口さんいい身体してるもんね」
「そうね。舞踏やってるんでしょ。あの人」
「そう。暗黒舞踏」
「教室で評判なの。一度ポーズを決めると全然動かないし、筋肉がきれいに分かれてるし、あんなモデルさん、どこで見つけて来たんだろうって噂してるの。先生、モデルの事務所、通してないみたいだし。先生の個人的知り合いなのかな?」
「ぼくはよくわからないけど、そうなんじゃない」
「えっ知らないの? あなた田口さんの所に居候してるんでしょ」
「うん。でも居候し始めたの、最近だもん。カリフォルニアから帰って来てすぐに、新宿で田口さんに拾われたんだ」
 ぼくも少し氷が解けてきたアイスティーにガムシロップを溶かして、ストローで吸った。口の中で輪切りになったレモンの酸味とガムシロップの甘みが混ざり合った。
「ふーん。そう。拾われたの」
 聖子は不思議そうに言ってコーヒーを飲み、テーブルにコーヒーカップを置いた。
「じゃあ、裸婦のモデルも一人だけ?」
「えっどうして? 裸婦のモデルさんは何人もいるわ。男性が田口さんだけだったの。だけど、やっぱり、裸婦のモデルさんも先生の知り合いなのかな」
「え? 裸婦のモデルさんも先生の知り合いなの?」
「ううん。よくわからない」
 モデルの事務所を通してない素人ができるのなら、誰だって裸婦のモデルになれるってことじゃないか。ぼくは、少し好奇心をくすぐられたので、彼女に訊いてみた。
「きみはやらないの?」
「えっ、あたしが? 裸婦のモデル? まさか!」
「いいじゃないか。綺麗だし、プロポーションもいいし」
 彼女は黙ってしまった。
「男の前で裸になったことなんてないんだろ」
 アイスティーのストローを吸う替わりに、透明なガラスコップに入った、溶けた氷が浮かんだ水を飲んだ。聖子は反撃するように強い口調で言った。
「あのー。あなたは、自分がやったからそんなこと言うの?」
「そうじゃないよ。ただ・・」
「ただ、なによ」
「見てみたいなって・・」
「え? あたしのこと」
 彼女は羞恥心をはぐらかすように笑いながら、ぼくからの視線から外れるように身体を斜めに傾けた。
「きっと綺麗だと思うよ」
 ぼくから視線を外した彼女に言うと、「あなたはもうやらないのよね?」と小さな声で言った。
「あそこで、モデル。もうやらないのよね?」
「ああ。もうやらないよ」
「なんだ。自分だってもうやらないんじゃない」
 聖子は少し勝ち誇ったようでもあったが、内心がっかりしているようにも見えた。ってことは、もう一度ぼくの裸体をデッサンしたいのだろうか。田口よりも、ぼくの方がいいのだろうか。
 ウエイトレスが空いたガラスコップに水を注ぎにやってきた。ぼくはガムシロップが下に溜まっている紅茶をストローで吸って甘みを味わいながら、ストローでくるくる氷を回していると、聖子はぼくの目を見て言った。
「あのぉ。あたし一番前にいて、あなたのこと見てたの」
「知ってるよ。でも、そんなこと考えてなかっただろ? 美大受験するためにデッサンしてただけだろ?」
「えっなにが?」
 自分でも辻褄の合わないことを言ってしまったことに気付いた。
 聖子はコーヒーカップを持ち上げてゆっくり口に注ぎ、ぼくはアイスティーのストローを吸った。
「あのとき、どうして・・」コーヒーカップを皿に戻すと、聞き取れないくらい小さな声で「あんなになってたの」と、独言のようにささやいた。
「えっ、どうして?」
「だって・・。あのとき、あたし・・。ねえ。あたしのせい?」
 聖子は真面目な目でぼくを見た。そしてすぐに苦しそうに下を向いた。ぼくは一瞬言葉を詰まらせた。でも、思い切って言ってみた。
「そうだよ。きみのせいであんなになったんだ」
「えっどうして?」
「どうしてって言ったって判らないよ。それより、きみと、これからつき合いたいんだ・・」
「えっ、あたしと? これから・・」
「そう、きみとこれから」
「えっ、つき合うの? あなたと?」
「そう、これから。ぼくとつき合わない?」
「えっ、どうして?」
「だって・・きみのこと・・」
「えっ、あたしのこと?」
「好きなんだ」
「あたしのこと?」びっくりしたように目を丸くしながら言った。
「あのとき、そう思ったの・・」
「うん。それに今、もっと好きになったんだよ」
「今?」
「そう・・今日これから、つき合ってくれる?」
「あたしと? 今日?」
「うん。これ飲み終わったら」
「えっ、これから? いったいどこ行くの?」
「田口さんの家に連れてってあげる」
 彼女は急に黙ってしまった。
「田口さんの家、面白いんだよ」
 不安そうな顔でうつむいている。
「田口さん、今日は遅くなるんだ。だから、大丈夫だよ。いないから」
 聖子は黙ったまま返事をしない。
「怖いの? なにもしないよ」
「えー。そんなことないけど・・だって・・」
「嫌ならいいんだよ。来なくて」
「えっ、どうして? そんな言い方するの」
「来るなよ。来たくないんだろ!」
「・・ねえ。もっと優しく言ってよ。そんな言い方するんだったら行かないわ」
「わかったよ。ゴメン・・。でもやっぱり、今日は、やめておけよ。いつだっていいよ。気が向いたらでいいから、また会ってくれないか」
「どうして? せっかく田口さんの家、見たいと思ったのに・・」
「え? いいの? だって、嫌だってさっき言ったから、だめなんだと思って・・」
「ねえ、どんな家なの? 田口さんの家。居候してるんでしょ。面白い家?」
「うん。面白い家だよ。田口さんの家、長屋なんだ。でも隣は空き家だから、田口さんしか住んでいないんだよ。隣の長屋とは草茫々の庭続きになっていて、その周りには何も無いんだよ。前は清水の森公園っていう保護樹木の大木が生えてる公園だし、隣は砂利敷きの駐車場だし、周りは畑と大きな保護樹木の生えているお屋敷しかないから、とっても静かだよ。それに、田口さん、長屋の壁をぶち抜いて部屋を作ったんだ。鉄骨で骨組みをつくって、コンパネとビニールの板で小さい小屋を増築したんだ。まるでビニールハウスみたいだけど、ぼくはそこに居候させてもらってるんだ。きっと驚くよ。中の壁は真っ黒で、仏壇みたいな小さな観音扉付きの窓があって・・」
「わかったわ。でも・・やっぱり今日はやめておく。・・ごめんね」
 彼女は、下を向いてコーヒーをすすった。
「え、どうして?」
 聖子は、下を向いてコーヒーカップをテーブルに置いたまま、なにも言わない。
「そう。わかったよ。じゃあ、もう二度ときみには会わないよ。さようなら」
 聖子は首を横に振った。
「いいわ。さようなら」
 ぼくがアイスコーヒーを全部ストローで吸い終わると、聖子は小さな声で言った。
「じゃあ、また今度ね」
「今度? 今度なんてもうないよ。もう、きみとは二度と会わないよ。さっきそう言っただろ」
「そんなこと言わなかったわ」
「言ったよ」
「言わなかったわ」
「どっちにしたって、もう会わないよ。二度とね。好きだけど、ストーカーじゃないから、きみにつきまとったりはしないようにするよ」
「ねえ。あたしのこと・・ほんとうに好きなの?」
「きみと付き合いたいって言っただろ!」
「でも、あたしの、あの・・」
「なんだよ!」
 ぼくが語気を強めて言うと、聖子は吐き出すように、ちがうわ! あなたが欲しいのは、あたしの体だけでしょ! それだけであたしと付き合いたいんでしょ! と言いながら急に泣きだしそうになった。
 ぼくはガラスコップの底に残っているほとんど溶けてしまった氷を何個も口の中に入れ、それを噛み砕いて呑み込んだ。
「そんなことないよ。だって、どうして、心と体を分けなきゃいけないだよ。それに、そんなことできるわけないじゃないか。きみの心が体と切り離されてて、きみの心が好きならいいっていうわけ? そんなの馬鹿げてるよ。それで気が済むんなら、そう言ってあげるよ、でも、いったいどこがどう違うんだかわからないよ、そう言えば気が済むんなら言ってやるけど・・。きみの心が好きなんだ。体なんてどうでもいい、きみの心だけが好きだ。・・どう? これならいい? これで気が済んだ?」
「なによ。その言い草。だって、あたしとろくに話したこともないくせに、好きだなんて、なんでそんなに急に、軽々しく言えるの!」
「え? そんなの理屈だよ。きみに惹かれていることに理由がなけりゃいけないの? きみの顔は綺麗だし、体も魅力的だ。それだけじゃだめなの? それよりも、きみの心が好きだと言わなければいけないの?」
「いやよ、そんなの。そんなふうに言われて、行くなんて言えない」
 聖子は潤んだ目を伏せてテーブルを見つめた。
「悪かった、ごめん。きみが好きなのに、今、目の前に見えているきみに惹かれているのに、見えない心まで好きになれと言うんなら、そうするよ。だから・・一緒に来てよ。来てくれたらなんでもするから。いや、なにもしないから。ただ、来て欲しいだけなんだ。だから・・」
「そう、わかったわ。なにもしないんだったらちょっとだけ行ってあげる。でも・・ちょっと寄るだけだから・・」
彼女は黙って、コーヒーを飲み干した。


 
 
 
 
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2009年01月15日

4 夜道を歩きながら思い出している




 キリスト教会が運営している病院の裏まで歩いて行くと、急に辺りが暗くなった。
 ここから先は、薄暗い裏道を通って、街中を流れる川の始点にある公園の方に歩いて行く。街灯もまばらで、駅から遠ざかるほど歩いている人影も少なくなる。
 聖子はぼくと並んだまま、下を向いて歩いている。すっかり暗くなった路を不安そうにぼくについて来ている。ぼくは闇には慣れている。高校を卒業してもぼくは他の友達と同じレールには乗らなかった。思ってもみない所に行き、たったひとりで夜の山の中を駆け回った。そして、まったく違った自分を発見した。だからぼくは、ひとりで歩くことに慣れている。それに闇にも慣れているし孤独も平気だ。
 ぼくは夜道を歩きながら思い出している。

 エアポート・リムジンから降り、新宿の地下ショッピング・モールを抜けて地上に出たとき、ビルの間から小さい空が見えた。カリフォルニアの広大な国有林の山中の大空を見慣れていたぼくは、自分の生まれ育った街の空が、こんなに飼い慣らされて縮こまっていたことに初めて気付いた。
 ぼくは、ピックアップトラック――それは金門橋を夕方渡り、カリフォルニアを北に北に走って行った――に乗って、途中、クリア・レイク湖畔にあるカレッジに泊まり(ぼくは、その図書館の長椅子に寝た)、翌日昼頃には、シャスタ山麓に広がる広大な合衆国国有林の山中に迷い込んでいた。
 アメリカ合衆国のナショナル・フォーレスト、と言っても、もともとはインディアンの土地だ。人間の所有には属さない手付かずの自然の森林を、近代侵略国家が名前を冠して“国有化”していること自体が笑わせる。でも、その上空には時折、戦闘機のようなモノが飛行機雲を長く棚引かせて横切って行った。あまりにも高く飛んでいたからその形までは見えなかったが、高い空を切り裂くような真っ白い飛行機雲が天空に描かれると、その後にエンジン音が唸るのが遠くに聞こえた。ぼくは高い空に真っ直ぐに描かれた細長い飛行機雲を見上げているのが好きだった。それ以外、空にも、そして遠く山々が霞む地平線まで、人工の物は一切視界に映らなかった。文字通り自然の風景の中、都会育ちの十八才のぼくは、生まれて初めて原始的な生活を体験した。薪を切りに山の林に分け入り、水を汲みに薄暗い谷の斜面を下りた。そして、夕日を見ながら、山肌の土に穴を掘って糞をした。電気もガスも水道もない、トイレも風呂も、そして、法律もタブーもない生活。
 山にはインディアン式のティピとモンゴル式のヤートが点在していた。互いに見渡す限り離れている。広大な敷地は、ニューヨークの株で大もうけしたヒッピー上がりのエコロジストが買い取った土地らしい。どこから買い取ったのか、アメリカ合衆国か、それともカリフォルニア州からか知らないが、とにかく、そこだけがなぜか私有地で、その周りは広大な国有林が広がっていた。かつて一度だけ、原生しているオークの大木を伐採したことがあり、そのとき切り出した材木を運ぶために、一本の細い林道が作られた。オーク材を伐採した跡には広大な開けた敷地が残り、大小の丘が連なるその谷の周りは深い原生林に囲まれていた。今ではもう使われていないたった一本の狭い林道が、人知れず存在するこのコミューンに続く唯一のルートだった。だから、誰もよそ者が入り込むことはなかったが、ときどき鹿狩のハンターが路に迷ってこの狭い林道から山に入り込み、そこに人間の住んでいるコミューンがあることなど知りもしないで鉄砲を撃つこともあったらしい。彼らに鹿や熊と間違われたら、散弾で撃ち殺されてしまうだろう。しかし、実際、コミューンにいたわれわれは、獣と同じだった。都会の人間がそうするようには森を恐れることもなく、獣道を歩いて薪を拾い、水を汲みに谷に下りることが自然の行為だった。地図もなければ街灯もない。それでも当然、森の闇を恐れることもなかった。しかし、山には危険もあった。自分たちがハンターに鹿や熊と間違われるだけでなく、自然界のハンターの餌食になる危険だ。夜になるとコヨーテの遠吠えが聴こえた。日が沈んでから山に入って路に迷い、コヨーテに食われた仲間もいるらしい。
 旧式のブルーのトラックに拾われて狭い林道を走り、初めてその谷に入ったぼくは、広大な丘の斜面に立つティピの天井から立ち昇る薪をたく煙が烽火のように天高く棚引いている光景を初めて見て驚いた。そんな風景は生まれてから一度も見たことがなかった。でも、おかしなことに、遠い昔、どこかで見たことがあるような気がした。白人に侵略される前のアメリカの森林。ぼくはそこにかつていたし、再びそこに彷徨い込んでいるような錯覚を覚えた。
 雨が降れば、山の小川は轟々と流れる激流になる。いい天気が続くと水が枯れて飲む水も無くなる。ストーブで燃やす薪が無くなれば豆を煮ることもできない。寒い山の斜面を登り、枯れ木を見つけて鋸で切って下に運ぶ。ヤートの外で拾ってきた薪を斧の一撃で綺麗に真二つに叩き割ることができるようになった頃、ぼくは既に時計の時間を忘れている自分に気付いた。そして、それまで掛けていた眼鏡を外した。そこでは、細かい文字など読む必要がなかった。街に溢れているような看板もなければ、道路標識も電車の路線図もない。あるのは空と木と山だけだ。だから、どんなに近眼で視界がぼやけていようと、何の差し障りもなかった。
 エジソンが百数十年前に発明した電気の光を一切見ない生活を続けているうちに、夜でも森の中を歩けるようになり、動物的感覚で風の気配を感じるようになった。ぼくはすっかり今まで植え付けられてきた社会の常識を忘れた。そして幸いなことに(そのときはそう思った)、ぼくはやっと本物の獣になったのだ。ぼくは狂喜して大声で叫びながら、山の斜面を全速力で走り、転げ回った。誰もぼくを気違いだと言う者もいないし、咎める者もいない。第一、ぼくの姿を見る者も、ぼくの声を聞く者もいないのだ。ただ、空と木々と山だけが全てだ。木々は呼吸するように風になびき、鳥たちが落ち葉の上に群れる。すっかり狂ってしまったぼくも、彼らと一体だ。自然の一部なのだ。そして、それこそが自由だ。それを言葉で表現することはできない。だから、ぼくはただ大声で叫んだ。(そして、昼は太陽に照らされて、夜は月の下で、裸で斜面を転がった。)
 山のコミューンは、たった一つの思想で作られていた。それはもちろん“自然の生活”という思想だ。それをもっと難しく言えば、エコロジカルな持続可能なオルタナティブなエネルギー循環型経済ということになる。つまり、現在の世界経済は、石油のエネルギーに依存している。ところが、やがてそれは原子力にとって代わられるだろう。しかし、石油にしても原子力にしても、それを推進し、その経済を牛耳っているのは、一部の先進国の多国籍企業とその役員たち、そして、それに連なる政治家たちだ。そして、彼らは自らの利益だけを追求し、贅沢な生活を送ることだけを愉しむだけの“理想”しか持ち合わせていない。そんな貧しい“理念”では、地球は運営できない。その証拠に、人間社会では富める者と貧しい者の格差が生じ、人間の利便のために地球の資源を使い果たすことを善しとする経済は、やがて近い将来、破綻するだろう。
 ニューヨークの株で大儲けしたピッピー上がりのエコロジストは、オルタナティブな循環型経済(それは、森林の中で自然農法で作物をつくり、ソーラーバッテリーやウインドジェネレータでエネルギーを生産し、そして、芋からできる焼酎のアルコールでエンジンを回し、アルコールを絞ったカスを家畜の飼料として、鶏やヤギを飼い、それらが産む卵や乳をいただこうという自給自足の生活)を世界にデモンストレーションしようとしていた。
「石油経済が、原子力経済に移行する前に、われわれはこのエコロジカルな循環型経済を発展途上国(未だにグローバル経済に取り込まれていない国)にデモンストレーションして歩こう」、そのための実験施設として、彼はこのコミューンを造り、その思想に共感する者はだれでも自由にそこで生活することができた。ところが、ぼくはそこからも逃走した。日本の受験戦争の学歴、職歴社会から逃走したばかりではなく、ファースト・フードのハンバーガを食べ、コーラを飲んでハリウッド映画を見ているだけが自由であると錯覚しているアメリカナイズされたグローバル・スタンダードに対して、自国の米国の内側から警鐘を鳴らそうとしている理想のエコロジカル・コミューンからも、ぼくは逃走した。ぼくが求めていたのはいったいなんだったのだろう。ぼくは、しかし、ただ“理想”を求めていたことは確かだ。そして、それだけを求めていたのかもしれない。その“理想”は、確かに絶対に誰にも達成できないからこそ“理想”である類の、夢のようなものであったのかもしれない。しかし、だからこそぼくは、どんな社会にも満足できない天邪鬼なアウトサイダーであり続け、どんな組織にも帰属できなかったのかもしれない。
 山を降りてミルバレー付近をうろついていると、そこで初めて抱きたくなるような女を見た。でも、ぼくは何もできないまま風に吹かれるようにロスに行き、モーテルに泊まって飛行機に乗り、いつの間にかまた、東京に戻って来ていた。
 ぼくの生まれ育った町、新宿の風景は、以前とはまったく違って見えた。排気ガスでうす汚れた空。コンクリートに覆われた地面。大地も空も窒息しそうなのに、形だけ小奇麗な日本人が無表情にぶつかってくる。いつパニックになってもおかしくないほどストレスを抱え込んでいるのに、人々は平静を装って、忙しくも規則正しく時計仕掛けのように動き回っている。
 ところが誰もいない山から降り、一転、都会の雑踏の中、大勢の人間に囲まれてパニックになっていたのは自分だった。
そんなことは今まで一度も感じたことがなかったのに、ぼくは有り余るほどに溢れる人間と商品と雑音に圧倒され、住み慣れたはずのこの街が、まるで狂気の世界でもあるかのように感じられた。いや、街の喧騒に圧倒され、今にも自分が発狂しそうなのを堪えていた。
 ぼくはここから逃れられない。きっとぼくは罰せられるだろう。“自然”であることを見破られれば、突然、人ごみの中の誰かがぼくを捕まえ、犯罪者だと言って監獄にぶち込むだろう。(ぼくは、ふりをすることができない。平静なふり、当たり前のふり、そう、この人工の都市は狂っている、それなのに平気でいるこの大勢の人間たちは皆、“正気なふり”をしている狂人なのだ。本当は恐ろしく狂っているのに、自分は正常であるばかりでなく、立派な“社会人”だとすら自負している。それに比べて、ぼくはいったい何者なのだろう。ただの裸の野良犬だ。いつ保健所に捕まえられて殺されるか分からない野良犬同然だ。)
 突然襲ってきたわけのわからない脅迫観念にとり憑かれ、パニックから逃れようとするあまり、自分を見失って後ろを見ながら前に走る狂犬のように、ぼくは商店街の歩道の上を突っ走っていた。
 そして、前から来る人間にぶつかった。
 夏だというのに、黒いスーツを着込んでいる。
「おい! コラァ!」
 ドスの利いた声で威嚇され、ぼくの脳は一気にアドレナリンを放出させた。その途端、自分の拳がそいつの頭蓋骨を思いっきり、叩き割らんばかりに殴っていた。
「コラァ!」
 男が大声で叫ぶと、周りから二、三人、仲間が走って来た。
 掴まれた身体を振りほどき、全速力で走った。
 ぼくは今度こそ本物の獲物になった。月夜の山の中を鹿のように駆け回ったことを思い出した。アスファルトの地面を蹴り、飛び跳ねるように人工の街中を走った。
 行き交う人ごみを軽いステップで避けながら、闇雲にどこまで走ったろうか。前から来た別の黒いワイシャツを着た男に捕まった。
「おい、コラァ。貴様ぁ。ナメとんのかぁ!」
 腹に蹴りを入れられ、息もできずに倒れた。
 目の前が黄色くなり、そのまま顔にも何発か喰らい、たぶんボコボコにされて気を失ったのだろう。体中に激痛を覚えて気が付くと、血を吐いて地面を舐めていた。
 見上げると、いつの間にか大勢の野次馬に囲まれていた。ぼくはアスファルトの地面に倒れたまま、蹴りを入れられていた。
「おいおい、お兄さんたち!」
 そのとき、人だかりになった輪の中に入って来たのは、夏なのに白いトレンチコートを着て黄色いサングラスを掛け、真っ赤なフエルトのベレー帽を被った背の高い男だった。
 男はかん高い声で言った。
「やめなさいよ。野良犬いじめるのは!」
 それを聞いた、リーダー格のチンピラが叫んだ。
「なに、こら、貴様! 関係ねーだろ!」
「かんけーあんだよ!」
 現われた男は、恐れを知らないヒーローのように言った。
「なんだと!」
 チンピラたちがいきり立つと、トレンチコートを着ていた男は、それを脱いで地面に投げつけた。下は、ランニングシャツ一枚。肩の筋肉が盛り上がっていて、腕の一つ一つの筋肉までくっきり分かれて見える。 頭に赤いベレー帽を被ったまま、チンピラを睨んだ。
 人だかりの野次馬の中からどよめきが起こった。
「バカヤロウ!」
 だれかが、興奮して叫んだ。
 それを聞いた野次馬が急に興奮しだした。
 そのとき、ぼくを執拗に蹴っていた男が叫んだ。
「警察が来た! ズラガロウゼ!」
 徒党を組んでぼくをリンチしていた男たちは、あっと言う間に散って行った。
 野良犬が狂犬だったら、人に懐かずに噛みつくだろう。ところが、そんな獣を逆に不憫に思い、家に連れて帰ってエサを与え、自分の犬にしようと思う男もいるのだ。ぼくは、その男に拾われた。
 それが暗黒舞踏をやっている鳶の田口だった。


 
 
 
 
posted by hoshius at 15:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 狂犬革命 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月14日

5 夜の長屋のビニール小屋の中で



 
 気付くともう長屋の前にいた。外から見ると中は真っ暗で明かりが灯いていない。
「まだ田口さん帰ってないな。今日は飲んでくると言ってたから、きっと遅くなるよ」
 雑草を踏み分けて勝手口にたどりつくと、今ではもう使われていない、すっかり腐りかけた牛乳箱の中から鍵を取り出し、鍵穴につっ込んで回した。すぐ後ろに聖子が立っている。引き戸をガラガラ開けてそこから台所に上がる。
「気をつけてね。真っ暗で狭いから」
 手探りで裸電球のスイッチを捻った。
 急に眩しくて目がくらんだのか、背の高い聖子はかがむようにして目をつぶった。
 台所の床が軋む。
「古いでしょ、この家」
「なんか、ちょっと怖い。お化け屋敷みたい」
「こっちに土間もあるんだよ」
 風呂に入るわけでもないのに、ぼくはなぜか、まず聖子をそこに案内した。
 裸電球のソケットを捻ると、ガランとした風呂場が浮かび上がった。
畳も、床も、土台も全部外した薄暗い土の匂いのする土間に、木製の古い風呂釜が置いてある。その周りには、すっかりかびて黒ずんだすのこが地面に敷いてある。這い登って中に入らないと湯船に浸かれない風呂だ。裸で、この風呂の淵を跨いで中に入るのにはいつも苦労する。でも、薄暗い土のにおいのするこの土間の風呂に浸かっていると、なぜか心が落ち着く。この風呂場も田口が作ったのだ。
「こっちにおいでよ」
 襖を開け、田口の部屋に入り、電球(この部屋の電球にだけは傘が付いている)からぶら下がっている紐を引っ張った。
 フィラメントの光に照らされてよく見えるようになった田口の部屋。勝手に他人の部屋に入るのは気が退けたが、聖子に見せたいものがあった。
 うす汚い畳の上に絨毯が敷かれていて洋間のようになっている。簡素な木製の机と、主人の不在を証明しているかのように置かれた椅子、そして、その横にはニスの塗られた古い本棚がある。幅は一間、高さは背丈ほどの本棚には、田口の脳の中に移植された後の、あるいは移植される前の思想の集積、すなわち、何冊もの単行本が綺麗に並んでいた。
『ニジンスキーの自伝』(ニジンスキー)。『天使論』(笠井叡)。『いかにして超感覚的知覚を獲得するか』(ルドルフ・シュタイナー)。『アカーシャ年代記より』(ルドルフ・シュタイナー)。『神秘学』(ルドルフ・シュタイナー)。『地獄の季節』(ランボー)。『美徳の不幸』 (サド)。『ジュスチーヌ』(サド)。その他、バタイユ、シモーヌ・ヴェイユ、ジャンヌ・ダルク、渋沢龍彦、箱入りのフランス文学全集。アルトー、ボリス・ヴィアン、そして、W・ライヒの『オルガズムの機能』、量子物理学者のハイゼンベルグやシュレディンガーの本、ゲーデルやフロイト、シュレーバーの本もあった。
 ぼくは、彫刻のように白く光る聖子の横顔に向かって静かに言った。
「どれか、読んだことある?」
「え? この本の中で? なんか、みんな難しそう」
「これ見てよ」
 ぼくはお気に入りの一冊を本棚から抜き出してページをめくった。
『ニジンスキーの手記』
 その中に載っている白黒の写真を見せた。
「ほら、ニジンスキーだよ」
 彼を指差して思わず誇らしげに呟いたが、彼女は知らないらしく、きょとんとしている。
 薔薇の精の写真を見せると、彼女は、「きれい」と一言だけ言った。
 畳に赤い絨毯が敷いてある居間を抜けて、ぼくの居候している“ビニール小屋”に彼女を案内した。
 半間に仕切られた壁に一枚のカーテンが掛かっている。だれもそこがもう一つの部屋に続く入り口だとは思わないだろう。掛けてあるカーテンを開けると、その壁はぶち抜かれている。そして、その先には闇が広がっている。でも、実際は、庭の外に増築された隠れ部屋に続いているのだ。
「頭、気をつけてね」
 畳の部屋から床を一段降りると、コンパネの床が鉄骨の上に乗っかっているだけの外の部屋に続く通路に出る。
 背の高い彼女は、頭を下げて恐る恐る中に入ってきた。
「わっ、なにこれ。鉄骨?」
 鉄骨とコンパネで囲まれた狭い通路の外から、木の葉を揺らす風の音が聞こえてくる。
「そう。鉄骨。さっき言っただろ。きっと田口さんが鳶の現場から持ってきたんだよ。面白いでしょ。こんな所にもうひとつ部屋があるなんて。壁をぶち抜いて庭に部屋を作ったんだよ」
 通路は二、三歩歩いただけですぐに四畳半くらいの部屋に突き当たる。鉄骨の骨組みにコンパネの床と壁、天井は波打った塩化ビニールの板を取り付けただけの“ビニール小屋”だ。
 ぼくは腰をかがめたまま、我が独房であるビニール小屋の中に入り、手探りで裸電球を灯した。
「わっこれ。なんか、すごい」
 闇の中から、コンパネの壁が全て黒いペンキで塗りつぶされた鉄骨がむき出しの部屋が現われた。目を細めた聖子は、真っ黒い壁に画鋲で留められているインド更紗の大きな布を見て呟いた。
「なんか、これ、いい感じ」
 裸電球に間近で照らされた聖子の鼻筋が、魅力的に光っている。
かがんだまま立っていると疲れるので、コンパネの床の上に座った。
聖子もぼくにつられて床に座った。が、いつでも外に出られるように、入り口付近に遠慮がちに正座したまま、あっけに取られた様子で辺りを見回している。
「脚くずしなよ」
「あ、うん」
 斜めに脚をそろえて、短いスカートの裾を引っ張った。
「あの・・デジャヴュって、体験したことある?」
 唐突に、しかも真面目そうに、聖子はぼくに訊いた。
「うん。もちろんあるよ。どうして?」
「あたし、今、そんな感じがするの」
「え? ここに来た事があるって感じるの?」
「そう。このインド更紗が壁に貼ってある部屋。ここ、前に絶対見たことあるわ、夢かもしれないけど・・。それに、ここに来たことがあるって感じるの。それも、こんな夜に・・」
 ぼくは少しぞっとした。
 田口の本棚にあった『ジュスチーヌ』をこっそり抜き出してきて読んだ夜、ぼくは興奮して眠れなくなった。裸電球を消してコンパネの床の上に寝そべりながら、ずっとジュスチーヌを夢想していた。この部屋に居候してからずっと、昼間は、ただただ寝ていた。真夏の太陽が塩化ビニールの屋根から降り注ぐ中、ぼくは裸でコンパネの上に寝そべり、ただじっと屋根から降り注ぐ太陽の光を見つめていた。真夏の太陽がビニールハウスに降り注ぎ、黒く塗られた部屋の中はサウナ状態になる。尋常ではとても中にいられないだろう。それでもぼくはコンパネの床の上に寝転び、顔中かさぶたになった瞼を閉じ、新宿でチンピラにリンチされ蹴られたわき腹や背中や胸や、踏みつけられた腕や脚や、腰や急所や、そしてとくに革靴の先で蹴られた左の米神に痛みを覚えながら、ただ太陽の光がそれを癒してくれているかのようにコンパネの床の上に裸で寝そべり、汗を滝のように流して、ただただじっと太陽光線を見つめていた。きっとそのせいで日射病になっていたのかもしれない。夜になると頭が激しく痛んだ。そして、左の米神に激痛が走り、気が狂いそうに我慢できなくなった。すると、突如“独房”の中に、殉教したジュスチーヌが現われた。こんな体験は初めてだった、が、きっと日射病かなにか、頭の病気になっていたのだろう。真夜中で本当は何も見えないはずなのに、彼女は3DCGのように立体的で、原寸大で、まるで本当にそこにいるかのように見えた。しかも、そこにいる彼女は、未だに純潔を保っているその肉体をぼくに捧げてもいいと伝えてきた。それは言葉で聞いたのではなかった。ぼくがそう感じただけか、彼女の思考がテレパシーでぼくに伝わったのか、ぼくにはわからない。ただ、彼女の魂みたいなものをはっきりと感じた。それでも、目に見える彼女は幻覚だとわかっていたから、彼女の肉体と交わることなどできるはずがないと思った。それに、そもそも彼女はサドの小説の中の人物じゃないか。それが幽霊になって現われるわけがない。もしかしたら、これはなにか悪霊の仕業なのかもしれない。もし、ぼくが彼女と交わろうとしたら、その瞬間、きっとぼくは発狂するのだ。そんなことを思いながらも、もし、本当に彼女と交わり合えるのなら、ぼくは狂ってもいいと思った。でも、そんなことは不可能だ。死者がどうして肉体を持っているはずがあろうか。そんなことはありえない。肉体が朽ち果てたから死者になったのだ。それにぼくは夢を見ているだけなのだ。狂った頭の作り出した幻覚と、本当に交じわり合えるわけがない。それでも、ぼくは自分が今、夢を見ているのかもしれないと考えるだけの自意識と理性はあった。それなのにぼくは、彼女の肉体と本当に交わりたくてたまらなかった。それも今すぐそうしなければ、ぼくはもう手遅れになってしまうような気がした。そうしたら逆にぼくは発狂してしまうだろう。夢でも幻覚でもいい。そこに見えるのが、彼女の本当の肉体でなければならない。そして、彼女が悪霊だろうが自分の狂気の幻覚だろうがかまわない。その肉体と今すぐ交わり、射精しなければならないのだ。そう思いながらぼくは、神に必死で祈っている自分に気付いた。起き上がり、コンパネの上に両膝をついて両手を組み、勃起したまま真剣に天井(天上)を見上げて、いつまでも神に祈り続けている自分。そうしなければ、いたたまれないほど胸が締めつけられて、狂ったように闇を見上げてジュスチーヌの肉体の前で跪いている自分。しかし、見上げていた天の闇は、いつの間にか天井に張られた波打った半透明の塩化ビニールの板を透かして差し込む暁の紫色の薄明に変わり、いつの間にかまばゆい朝日が昇ると、ぼくは再びその光に照らされている自分に気付いた。「ジュスチーヌの幻影も、朝日にかき消されて見えなくなってしまったよ。さあ、夜の悪夢から目覚めなさい。あなたの願いは必ず叶えられる・・」。地平線の向こうから登ってきた太陽が、ぼくにそう語りかけているような気がした。
 気付くと締めつけられていた胸の痛みは嘘のように消えていた。ジュスチーヌの幻影も跡形もなく消えていた。
 まさかあのときの祈りが今、聖子となって叶えられたわけでもあるまいに。でも、今、実際に目の前にいる彼女は、生きた肉体を持った女であることには間違いない。
「ねー、どうしたの?」
 ぼーっと黙っているぼくを、聖子が不思議そうに見ているのに気付く。
「え? あぁ。あの・・」
 ここにいるのは本物の女性だ。肉体を持った聖子だ。
 そういえば、彼女は大きいバッグを肩からぶら下げていて、その中に今日描いたデッサンが入っているに違いない大きな筒を持ち歩いていた。見ると、そのバッグは今、聖子の傍らに置いてある。その中には、ぼくを描いたデッサンがしまってあるはずだ。ぼくの全裸の肉体を描いたデッサン。なぜか、急に、それを見たくなった。
「あ、あの。今日描いたデッサンそこにあるの? 見せてくれない?」
口説き文句のように言うと、彼女はあっさり同意した。
「いいわよ。あまり上手くないけど・・」
 聖子はプラスチックの筒の蓋を開けると、中から丸まった木炭紙を引っ張り出した。そして、何枚か重なったデッサンをコンパネの床の上に広げると、丸まって元に戻らないように木炭紙の端を押さえながら、ぼくに見せてくれた。
 
 
 
 
 
posted by hoshius at 14:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 狂犬革命 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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