2009年01月04日

15 現実は数字によって作られている


 
 
「おまえ、千円しか貰わなかったのか?」
「うん。領収書にサインさせられたんだけど・・」
「そのとき確認しなかったのか」
「うん」
「馬鹿だな。ちゃんと確認しなきゃ」
 田口はビールを一本空けると、立ち上がった。
「加奈子さん、うっかりして札を間違えたんじゃないのか。俺が今電話して訊いてやるよ」
 ぼくは、封筒の中に入っていた先生の電話番号と住所の書かれたメモを思い出した。
「いいよ。べつに、千円だって・・」
「いや、よくないだろ。あのクラスは加奈子さんが個人的にやってるようなもんだから、そりゃあバイト代も彼女が勝手に決めてるのかもしれないけど、それにしても千円じゃ安すぎるだろ」
「いいよ。別に・・。それにまだ帰ってないよ」
「いくらなんでも、もう帰ってるだろ。こんな時間なんだから」
「そうかな。先生の家ってどこなの」
「いい所に住んでんだぜ。広尾だよ。広尾。」
「え、広尾?」
「そう。一軒家」
「じゃあ、地下鉄?」
「あー。六本木の次」
 ぼくはそれを聞いて、今すぐにでも行きたくなった。
「まさか、おまえ、彼女の家に行くつもりじゃないだろうな」
「まさか、どうして?」
「じゃあ、今から電話するからな。おまえも出るか」
「いいよ」
 田口は立ち上がって台所に行き、もう一本ビールを持ってきた。
 ところが、戻ってくると、前とは打って変わって深刻そうな表情になっていた。そして、急に思いついたように言った。
「おまえ、なんかしたんじゃないよな」
「え、別になにも・・」
「本当か?」
「うん」
 田口は、ちゃぶ台に置かれた栓抜きでビールの栓を抜いて、手酌でコップに注いだ。
「おまえ、変なことして、加奈子さん怒らしたんじゃないだろうな」
 田口はぼくが何か言うのを待っていたが、黙っているぼくを見ると、注いだばかりのビールを飲み干してから、プッシュホンを引き寄せて、番号を大きい人差し指で押した。
――あー。田口です。今日は、若いもんがお世話になって・・。そう、それが、変なこと言うから、奴が・・。うん、うん、そう・・いや、千円しか貰わなかったって・・うん、そう、・・・もちろん・・そりゃそうだ・・え?・・なんだ? そりゃ・・アハハハ、あー、はい・・そりゃあ・・奴・・犬みたいなもんだからさ・・え? いや、犬以下・・あーね・・ぶっ飛んでる?・・え? 本当?――
 黙って話しが弾んでいるらしい田口を見つめている。
――なんだそりゃあ!・・とんだ脳梅だ! まったく、そりゃ・・いや・・本当に・・とんだことを・・うん。どうも・・まいったな。あ、はい、はい・・ありがとう・・わかりました。今いるから・・そう・・ここに。じゃ、またあとで・・――
 電話を切った田口は、いきなり怒鳴った。
「おまえ、なんだってオレに嘘つくんだ!」
 舞踏家が怒るとこんなに大声が出るのかと思った。
「おまえからピンはねしようなんて、オレは思ったこともないしなあ、それに、おまえから食事代だのなんだのを貰おうなんて思ったこともないんだぞ。その上、おまえにぴったりのバイトまで紹介してやったのに、なんだってオレに嘘つくんだよ!」
「え? 嘘なんてついてないよ」
「バカヤロウ! 加奈子さんは、ちゃんと渡したって言ってたぞ。一マン円。それにな。おまえ! いったい何したんだ!」
「え?」
「おまえ、そこに来てた女の子に悪戯したのか!」
 酔って田口の声が無尽蔵にでかくなっている。周りには家もないし誰も住んでいないから、どんなに夜中に大声で叫んでも問題はない。でも、ビニールハウスには聖子が隠れている。真っ暗なところに閉じ篭っている彼女は、いったい何が始まったのかと思うだろう。
「おめえ! その子の名前も言ってたぞ、加奈子さん。男子便所で泣いているのを見つけた男子がよ、先生のところに連れてきたんだってさ。そしたら、その子はおまえに悪戯されたって言ったっていうじゃないか。どうなんだ! おまえ! 無理やり犯ったのか!」
「いや」
「いやじゃねーだろ。どうなんだ!」
「中学の後輩だよ。あんな所で会うなんて思ってもいなかったから・・」
「だからなんだってんだよ! なに言ってんだ、オマエ!」
「だから! 無理やりやった覚えなんて、ぜんぜんないよ!」
「なんだと! オマエがそうでも相手は違んじゃねェか! この脳梅!」
「なんだよ! その言い方! よくないよ!」
「フザケルな! この野郎!」
 田口の無尽蔵にでかい声が長屋を震わせた。
「その子が何て言ったか知らないがなー、加奈子さんだってこのままじゃすまないって言ってたしな」
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」
 面倒なことになったと思った。こんなゴタゴタになるとは思ってもみなかった。それに、奥に聖子も隠れている。
「おめえ、どうすればいいって、おめえのやったことだろ! どうすればいいか自分でも判んないのかよ!」
 そのとき突然、ビニールハウスから、背の高い聖子が幽霊のように現れ出てきた。
「おじゃましてます」
 田口に向かって挨拶した。
 田口はあっけに取られていたが、社交的に笑って言った。
「あー、きみ、加奈子さんのデッサンに来てる子?」
「そうです」
「背が高いから覚えてるよ」
「彼に誘われて・・ここに来たんですけど・・」
「あ、そう。こいつにね・・。そ、そうだろう」
 田口は目の前につっ立っている背の高い聖子を見上げると、急に満面の笑みを浮かべて言った。
「いらっしゃい」
 聖子は、こうして薄暗い男だけの部屋で見ると一段と美人に見えるし、スタイルも良くて魅力的だ。
「まあ、ここに座りなよ。ビールでも飲む?」
「あ、はい・・」
 さっきまでのことが嘘のように、きちんと服を着た姿で聖子はすっかり機嫌が良くなった田口の横に座った。
「おい、おまえ! グラス持って来てやれ。それにビールもう一本! それから、なんかなかったかな、つまみ」
 ぼくは、台所に行って冷蔵庫を開け、中を物色した。
 居間では、田口と聖子がなにやら話をしている。
――まー、あいつは、捨て犬みたいなもんだから・・悪い性質(たち)じゃないと思ってたけど・・着地できないまま・・そんなことになってな・・犬と同じで・・叱るときはしからないと・・痩せ犬?・・アハハ・・きみも・・同じくらいの年・・だから・・若さってのはさ・・――
 田口の言葉だけ断片的に聞き取れる。聖子の声もときどき聞こえるが、何を言っているか判らない。
 冷蔵庫の中に竹輪があったから、流しの包丁で一口大に切って皿に盛り、壜ビールとグラスと一緒に持って行った。

「こいつが地べたに転がってたときの姿さ。美しかったのよ。わかる?」
 田口が聖子に訊いている。
「えっ、倒れてた?」
「そう、新宿の路上でチンピラにリンチされてたのよ」
 持ってきた竹輪の皿とビールとグラスをちゃぶ台の上に置いた。
「最初さ、路上でパフォーマンスやってるのかと思ってさ。見てみたら、本当に口から血吐いて倒れてるじゃない。でも、その姿、いい形してたのよ」
 田口は舞踏を見るように、リンチされていたぼくを見ていたのかもしれない。
「おまえ、蹴られながら地面見てただろ。その目がとってもメランコリックだったから、オレはピンときたんだ。おまえは普通じゃないなってな。だからおまえのこと助けたんだぜ」
「え? メランコリック?」
 黙って田口の話を聞いていた聖子が訊いた。
「そう。地面見てる目が、ぼんやりと現実離れしてたのよ。あのときはな・・」
 今は違うと言いたいのだろう。拾った犬が発情したからか。
「あのとき、ぼく、もっと蹴ればいいと思ってた」
「え? なんだそりゃ?」
 田口はすっとんきょうな声を上げた。
「蹴られているのはぼくのエゴだと、ぼくは自分に言い聞かせていた。だから、もっと蹴ればいいと思っていた」
「どうして?」
 聖子が納得できないと言うようにぼくに訊いた。
「自分自身を守ることに必死になっているエゴが、自分が全てだと勘違いして、大いなる全体を認識するのを邪魔している。だから、ときには、自分が死ぬんじゃないかと思うほどのショックを受けることも必要なんだ」
 それを聞いていた田口は、間を置かずに言った。
「それ、誰の思想だ?」それからぼくの答えを待たずに続けた。「まあ、舞踏だって同じことだけどな。自分の体をコントロールしている自分自身を見つめるんだ。で、自分を動かしている衝動がちっぽけなものから来ていたら、舞踏もちっぽけになる。だから、より自由になることを求めるんだ。より自由に身体を動かすこと、それは自分自身がより自由になるっていうことだ。そして、より自由っていう自由は、つまり・・重力から自由になるってことなんだけどな」
 田口は、倒れることより立つこと、立つことより飛翔することこそ自由だと思っているらしい。
「ふーん。でも、結局人間は地面に倒れるしかないよね」
「まあそうだ。結局だれでも最後は死んで土に戻る。それでも、生とは、やはり、立つことなんだ。そして飛翔することなんだ。そうだろ?」
 田口は聖子の方を向いて同意を求めた。
「そ、そうですね・・」
 聖子は気乗りのしない様子で静かに答えた。
「重力のままに地べたに寝ているのもいいけど、やっぱり空に向かってジャンプするのもいいね。ニジンスキーみたいに」
 ぼくが言うと、田口の顔が一瞬輝いた。
「おまえ、ニジンスキー好きか?」
「うん。あの写真、いいよね」
「あー、薔薇の精の写真か」
「うん」
「ニジンスキーは、まるで空を飛ぶように飛翔したらしいよ」
「薔薇の精の写真ですか? あたしもさっき見せてもらいました」
「そう。女性が見てもきれいだろ?」
「そうですね」
 聖子は告白するように答えた。
「まー、こいつは、こういう奴だから、おれも拾ってきて置いてやってたんだけどな・・だんだん盛りがついてきやがって」
 田口は思い出したように運んできたグラスにビールを注いで聖子に差し出した。
「こうしてオレといれば大人しいんだけど、な?」
 田口は、ぼくを見てそう言いながら、今度は聖子の方を見て言った。
「未成年に酒を勧めちゃいけないけど、まあ、いいだろ!」
 聖子は遠慮がちにビールの注がれたグラスをちゃぶ台から掴み上げると、一気に口に流し込んだ。
 さっきまでぼくのペニスをしゃぶっていた唇が、ビールの泡で濡れた。田口は聖子の飲みっぷりに見惚れた様子で、空になったグラスに再びなみなみとビールを注いだ。聖子はまたそれを口につけて、黄色い液体をすすった。
 なんだか聖子の顔が前より青白く見える。
 田口は聖子のことを、彼女が女であることに満足しているような目つきでしげしげと眺めながら、諭すような口調で語り始めた。
「男と女なんていうものはさ、所詮、雄と雌だからな。コイツの言うことも理解できないわけじゃないんだが・・」
 ぼくは何も言ってやしない。
「でも、犬や猫じゃあるまいし、ションベンするみたいに交尾したって情けねーだろ。な、人間なんだからさ」
 ぼくは手酌で自分のグラスにビールを注いで勝手に飲み干し、竹輪をつまんで口に入れた。
「きみは今、幾つ?」
「十九です」
「あ、さっきも聞いたっけ。若いよな」
 田口は一人芝居の役者のような口調で言った。
「それで、コイツがやった子は十八か」
「え? やったって?」
 聖子が顔色を変えた。
「コイツ、学校のトイレで、犬みたいにやったんだってよ!」
「え? なにをですか?」
「だから、交尾って言うか、その・・」
「最低!」
 聖子は、ぼくの目を見た。
「そ、そうなんだ・・。誰と?」
 動揺した聖子は、独言のように呟いた。
 黙っているぼくを見て、田口がとぼけて言った。
「ほら、やっぱりおまえの彼女は犬じゃなかったな。加奈子さんは狂犬が趣味らしいけどな・・」
 聖子が赤くなって震えている。
「それでおまえ、この子ともやったのか?」
「やってません!」
 聖子は黙って竹輪を食べているぼくを睨んで立ち上がった。
「あたし、帰ります!」
「うん。そうしたほうがいいな」
「どうして、そんなこと言うんだよ!」ぼくは田口に食ってかかった。
「おまえは、送ってくなよ」
 ぼくは座ったまま、聖子を見た。
「こいつにはさ、きみよりずっと年上の女の方がいいんだよ」
 田口は何を思ったか、そんな台詞を立ち去る聖子の背中に語りかけた。
 聖子は振り返って、泣き出しそうな顔でぼくを睨んで「マザコン。気持ち悪い」と吐き捨てるように言った。そして長い脚でつかつかと台所の勝手口に向かって歩いて行った。
 田口は、大声で聖子に言った。
「送ってけないけど気をつけてね! また遊びにおいで!」
 聖子の声がかすかに聞こえた。
「おじゃましました!」
 ガラガラと勝手口が閉まる音がした。
 そのとき反射的にぼくは、ちゃぶ台の前に座ってタバコをふかしている田口に怒鳴った。
「お世話になりました!」
 そして、急いで勝手口に走った。
「おう。お前も行くのか」
 黙って外に出ようとした。
 居間に座ったままの田口は、大声でぼくに叫んだ。
「おい! 元気でな! 連絡しろよ!」


 
 
 
 
posted by hoshius at 04:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 狂犬革命 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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