2009年01月16日

3 聖子があの夜、長屋に来た理由



 
 それは、ぼくが初めて全裸のモデルになったデッサン講習会の帰りのことだった。先生からもらった封筒の中身のことが気になって、どこをどう歩いたのか覚えていない。気付くと、もう駅に着いていた。
 出入り口は線路の下で南北に分かれているが、改札は一つしかない。ここで待っていれば、先生もここに来るだろう。そうしたら、なぜあんなことをしたのか、直接、事の真相を問い質すことができる。でも先生が来る前に、他の生徒たちに会ってしまうかもしれない。やっぱり学校に引き返そうか、それともここで先生を待とうか。どっちにしろ、またあのデッサン講習会のメンバーと顔を合わせてしまうのは嫌だった。いっそのこと、メモに書かれた先生の住所まで先回りして行ってみようか。メモには“白金”と書かれていた。いったいどの駅になるのだろうか。あれこれ考えながら路線図を見上げていた。
「お疲れ様でした!」
 急に後ろから声を掛けられてびっくりして飛び上がった。振り返るとそこに女の子が立っていた。顔に笑みを浮かべてぼくを見つめている。 背が高いし、ブルージーンズのミニスカートを穿いているからすぐに分かる。デッサン講習会で一番前にいてデッサンしていた女の子だ。
「どちらに帰るんですか?」
「え? あ、あ、荻窪」
「えっ、うそー。あたしも、そっち方面なんです」
「え?」
「いっしょに帰りませんか」
「え?・・ああ」
 彼女につられて慌てて切符を買ってしまった。そして、惰性で彼女と一緒に改札を通っていた。
 ぼくが人をよけて早足で歩くと、彼女も肩を並べてついて来る。ぼくが階段を駆け上がると、彼女も遅れまいとして息を切らして階段を駆け上がって来る。そして、あっという間にホームに出たが、電車は来ない。黙ったままつっ立っているぼくの横で、気まずそうな彼女が何か話すきっかけを捜している。
「あ、あの・・」
 彼女はふりしぼるように言った。
「今度、いつ来るんですか?」
 真っ白い半袖のポロシャツの裾を入れたスカイブルーのミニスカートのウエストが細くくびれている。その腰が、やたらに高い位置にある。手足がチューインガムを伸ばしたように細長いスタイルのいい彼女は、真っ白い脚をむき出しにしてホームに立っているから、周りから目立つに違いない。そんな彼女がぼくと一緒にいるのをあそこにいた男子たちに見られたら嫌だなと思いながら辺りを見回しているぼくに、彼女はまた気兼ねしながら訊ねた。
「あのぉ。来週も来るんですか?」
 ぼくは彼女の方を見てあっさり答えた。
「いや、もう来ないよ。今日は、ただ、田口さんの代りに来ただけだから」
「え? 田口さんの代わりなんですか」
 わざと驚いたように、彼女は言った。
やっと電車が来て車両に乗り込んだが、二人は空いている椅子には座らず、ドアの横に立っていた。
「もしかしたら、モデルやったの、今日初めてですか?」
「うん」
「やっぱり・・」
「え?」
 なにが「やっぱり」なのか訊こうと思ったが、彼女は慌てた様子で言った。
「あ、あの。若いですよね・・」
「え? ああ、まあ、同じくらいかな」
「え、じゃあ、十九とか?」
「うん」
「じゃあ、あたしと同じですね。高校卒業したばっかりですか?」
「うん」
「大学行ってるんですか?」
「いや」
「じゃあ、今、何してるんですか?」
「え、べつに・・」
「田口さんと、お友達なんですか?」
「ああ、居候してるだけだけど・・」
「田口さんって、暗黒舞踏やってるんですよね」
「うん。なんで知ってるの」
「え、だって、みんな知ってますよ。有名だもん」
「そんなに有名なの」
「いや、そういう意味じゃなくて、あのクラスでは有名ってことですけど・・」
「あっそうか。じゃあ、きみも暗黒舞踏好きなんだ」
「ええ、まあ。見たことないけど、なんか、面白そう」
「なにが」
「一度見てみたいんですよね」
「なにを」
「え? 暗黒舞踏」
「あ、そう。暗黒舞踏・・」
 ぼくは、窓の外で暗くなって流れて行く景色に気を取られていた。ぼんやりと、あの先生のことを考えていた。彼女も、この子も、田口のことをただ〔知っている〕だけなのだろうか。
「じゃあ、あなたも、やってるんですか?」
「え、何を?」
「あのー。暗黒舞踏・・」
「いや、ただ、居候してるだけ」
「そうなんですか。なんか、変わってる」
「え、ぼくのこと?」
「そう」
 二人はドアの脇に寄りかかって立ったまま、身体がちょっとでも触れないように意識してお互いに距離を置いている。電車が揺れると、手でうっかり相手を掴まないようにバランスをとりながら、お互いに下を見て、相手の足を踏まないように気をつけている。
「きみも、変わってるよね」
「え? あたしが。どうして?」
「だって、普通、こんなふうに声かけてこないでしょ。知らない男に」
 また、電車がガタンと揺れた。
「あのー。あたし、文学部受験したんだけど、落っこっちゃって。それで、やっぱり美大にでも行こうかなと思って・・。だから、やっぱり変わってるのかも・・」
「そうかな。そんなことないと思うよ。どっちでもいいんじゃない。美大だって文学部だって」
「そうですか? あたし、あまり勉強好きじゃないから・・」
「じゃあ、ぼくと同じだね」
「えっなにが?」
「いや。勉強嫌いなのが・・」
 電車が軋んで、相手の声がよく聞きとれない。
「あっそうですね。あたし、そのまま高校の上の短大行けたんだけど、やっぱり大学、受験したいと思って・・。そうしたら、失敗しちゃって。一浪ですよ。なんかもう受験勉強するのがいやになっちゃって・・。絵でも描きたいなって思って」
「そう」
「大学は行かないんですか? これからも」
「え、ぼく?」
「そう。大学 もう 行かないんですか? これからも」
「うん。べつにしたい勉強もないし・・」
 電車が駅に着くと、帰宅のサラリーマンが乗り込んできた。二人は入ってくる人を避けてドアの横に立ったまま、黙っていた。
 早く駅に着けばいいと思った。この子と、もうこれ以上話すことがないような気がした。たぶん、それ以上の何かをお互い期待していたのかもしれない。でも、沈黙したまま、気まずい空気だけが流れるまま、電車だけが走り続ける。そして次の駅が近づいてくる。駅についたらぼくは、電車を降りる。彼女はどうするのだろう。ついてくるのだろうか。それともそこで別れるのだろうか。だんだんとなにか喋らなければならないという強迫観念のようなものが突き上げてくる。
「ねえ。どこで降りるの?」
「あのー。あたしも、荻窪」
 電車がガタンと揺れた。
「あ、そう。じゃあ、同じだね」
 タイミング悪くふらついたぼくは、彼女と身体が触れ合った。それも、彼女の胸の先がぼくのあばら骨に当ってしまった。意外に彼女は嫌な顔もせずにぼくの目を見た。ぼくは慌てて彼女から離れた。
 彼女の胸の先端があばらに当った瞬間、ぼくは快感を覚えた。彼女はぼくの目を見るとすぐに視線を落として、恥ずかしそうに黙った。
「ねー。一緒にお茶でも飲まない?」
 せっかく彼女とここまで来たのに、そのまま別れたら彼女に悪いような気がした。
「え? どこで?」
「荻窪」
「次ですか?」
「そう。だって、降りるんだろ、荻窪で」
「そう」
 ポケットに入っている千円札で、とりあえず何か飲めると思った。
 黙っている彼女と一緒に電車を降りた。そのままついてくる彼女と、なり行きで、小奇麗な喫茶店に入った。

「そう言えば、名前なんて言うの? まだ聞いてなかったよね」
「小嶋聖子」
「聖子?」
「そう、聖書の聖」
「いい名前だね」
「そうですか? あたしあまり好きじゃないんですよね」
 二人は、お互いに言葉をつまらせたまま、デッサン講習会のことを思い出していた。また画家とモデルになったように対面したまま、お互いを見つめている。
「きみは神を信じてるの?」
 いきなりぼくの口をついて出た言葉は、彼女を驚かせたらしい。
「えっあたし? あまり考えたこともないけど・・。きっと、信じてないと思う。だってあたし、クリスチャンじゃないもの」
 真面目に答えてくれたことがうれしかった。
 聖子という名前をつけた両親が、クリスチャンなのか訊いてみようと思ったが、ウエイトレスが水を持ってきたので止めた。
「何にする?」
「あたし、ホットコーヒー。あなたは?」
「え、ぼく?」
「そう。あなたは?」
“あなた”と急に言われてドキッとした。
「えーと、じゃあ、ぼくはアイスティーにする」
 咽喉がカラカラだったことに気付いて、目の前に出された水を一気に飲み干した。
 驚いてぼくを見ている彼女の顔は四角いホームベース型で、エラが張っている。前髪を垂らしているせいで顔が横長に見える。その分、首は細く見えるのだが、姿勢よく背筋を伸ばしているので、よけいに首が長く見える。きちんと襟を折り曲げて着込んだ白いポロシャツの二番目のボタンまで開かれた襟元から、白い肌の鎖骨が光っている。半袖から長く伸びた細い腕はテーブルの上で両肘をついて、細長い指を交互に絡めたまま、ぼくが何か言うのを待っているように、じっとぼくの目を見つめている。
 彼女の瞳は好奇心と期待に輝いているように見えたから、ぼくは言葉を喋ってみた。
「どこの高校行ってたの?」
 その割には、ありきたりのことしか思い浮かばなかった。
「えっあたし? ○○高。あなたは?」
「ぼくは都立だよ。都立××高」
「あたし、知ってる。あそこ、都立では進学校で有名ですよね。あたしには偏差値高過ぎ。それに親に私立に行けって言われてたから」
 彼女はぼくに自分のことを正直に話してくれているのが分かる。だから、それがうれしかったし、そんな彼女に対しては、こっちも誠実に話さなければならないような気がした。
「なんで大学行かなかったんですか。あの高校で大学に行かなかったなんて、やっぱり変わってる」、とささやくように言う。
「そうかな」
 彼女の額は、おかっぱ風に切りそろえられた前髪に覆われている。でも、前髪以外の横の髪は、艶のある長い直毛で、肩の下まで垂れている。その髪が喫茶店のクーラーの風に揺れる。
「ぼくは最低の成績で高校を卒業したんだ。ほとんど学校に行ってなかったから。それで、卒業した途端に逃げ出したんだ。この日本から。そして、ずっとカリフォルニアにいたんだ」
「えっうそー」
 口元が斜めに歪んだが、それがなんだかとっても色っぽく見えた。
「本当だよ」
「何してたんですか? そこで」
「うん。シャスタ山っていう山の麓にメンドシノっていうナショナル・フォーレストがあって、その中に、七十年代にできたっていうコミューンがあったんだ。当時のヒッピーたちが作った、自給自足のコミューンなんだけど、そこにいたんだ」
「え? そんな所、今でもアメリカにあるんですか?」
「うん。アメリカって言ったって広いからね・・。それより、私立の女子高って楽しかった?」
「うん・・そうね。キリスト教の学校だったんだけど、あたしは礼拝のときは眠くなっちゃった。だって、先生の話難しいんだもん。でもその先生とっても有名な先生らしくて、本も何冊も書いてるんだって」
「じゃあ、キリスト教の勉強になっただろ?」
「ちゃんと聞いていればね。でも、興味なかったから・・」
「どうして?」
「だって、宗教って信じることでしょ? 難しいことなんてわかんなくてもいいんじゃない」
「たしかにそうだね。でも、なかなか“信じる”ことができないから、あれこれ“考える”んじゃないかな、人間って、なかなか難しい存在なんだよね」
 聖子はつまらなそうに下を向いて、水の入ったコップを両手で持って見つめている。
「それで、なんで美大受験しようと思ったの?」
「そうじゃなくて、ちゃんと普通の大学行こうと思ったんだけど、なんか、最近気が変わって、と言うか、一浪するんなら絵でも描こうかなって思うようになって・・」
 彼女はまだ何か迷っているようにぼくの目を覗き込んだ。
「でも、美大行くの、親が反対しない?」
「親? わかんない。でも・・いい大学入れたいみたい。だから、あたし、内緒でデッサン勉強してるの。親は普通の文学部受けると思ってる」
「そう。女の子なんだから、そんないい大学行って就職しなくたって、結婚すればいいんじゃない」
「え? 結婚?」と言って、下を見て少し恥ずかしそうに微笑むと、目を上げて、ぼくの目を真剣な眼差しで見て言った。
「あなたは、高校卒業して、大学行かないで、カリフォルニアの山の中のコミューンに行ってたんでしょ。ねえ、そこで何してたの? サバイバルでもしてたの?」
「山を駆け回って、犬と遊んでた」
「えっなにそれ?」
 やっぱり彼女には、ぼくのしたことを想像できるほどの(詩人の)イマジネーションは持ち合わせていなかった、と思った。だから、彼女を少しからかってみたくなった。
「そこはね、マリファナ牧場だったんだ」
「え、牧場?」
「そう、ドラッグ栽培してたから」
「それって、農場なんじゃない?」
「いや、牧場だよ」
「え、どうして? マリファナって家畜じゃないでしょ? 植物でしょ?」
「ううん。家畜だよ。マリファナが大勢歩き回ってるんだよ。草を食んで昼寝なんかしてるんだ」
「やっぱり、変わってる」
「そう、ぼくが?」
「そう、なんか過激。だって・・」
 彼女はうつむいて口元に笑みを浮かべた。
 きっとデッサン講習会でのことを思い出しているに違いない。
 注文したホットコーヒーとアイスティーが運ばれてきた。
「あ、あたし、少しビックリしちゃった」
 ウエイトレスが行くと彼女は言った。
 どもって、自嘲気味に笑いながら、コーヒーカップの乗った皿を引き寄せると、彼女はうつむいてコーヒーに砂糖とミルクを入れた。
「ぼくが勃起したこと?」
 そうはっきり言うと、彼女はハッと目を見開いて顔を上げた。その顔は一瞬にして赤面した。
「う、う・・うん。あんなになってたの見たの、初めてだったから・・でも、別に、いいんじゃない」
「え? なにが」
「ううん。なんでもない」
 彼女は、音も立てずに、熱いコーヒーを口びるに吸い込んだ。
 柔らかそうな頬が萎んで、横長の顔が細長くなった。
「いつも、あの先生なの?」
「え、平山先生のこと? いつもは、違うわよ。石膏とか静物描いてるときは、あの先生以外にもいろんな先生がいるわ。あのクラスは特別なの。美大受験のクラスじゃないから」
「え、受験のクラスじゃないの? それってどういうこと?」
「平山先生が有志を集めてやってるクラスなの」
「え? 平山先生が」
「そう。美大の講師もしてて、普段は人物描いてて、なんか有名みたい。外国にもよく行ってるみたいだし、よく個展もやってて、あたしも行ったことあるけど・・。だから、石膏とか静物だけじゃなくて、本物の人体を描けなければデッサンにならないって言うの。ちょっとあの予備校では変わってる存在みたい。だけど、美術の世界じゃ有名みたいだし、校長にも一目置かれてるみたいだから、学校とは関係なくあの先生が有志でやってるの。あのデッサン会。学校の教室借りて」
「へー。そうだったんだ」
「だから、もう美大受かった人も来てるのよ」
「いつも男のモデルばかり描いてるの?」
「え、まさか。裸婦も描くけど・・。どうして?」
 聖子は言葉を切って、コーヒーを飲んだ。
「いつも、男性のモデルは田口さんなの?」
 ぼくは急に田口のことを彼女がどう思っているのか気になった。
「え? 田口さん?」
「うん。ぼくは今、田口さんの所に居候してるんだ」
「えー。そうなの」
 聖子は不思議そうに目を伏せてコーヒーをスプーンでかき回した。
「最近、と言っても、もう一年くらいになるのかな。田口さん見つけてきてから。先生が・・。それより前はずっと裸婦だけだったの」
「え? じゃあ男のモデルは田口さんだけだったんだ」
「そう。今日あなたが来るまではね・・。でも、女の人の身体よりも男性の方が描きやすいかな・・。筋肉がはっきりしてるから」
 聖子は少し赤らみながらコーヒーカップを持ち上げようとして取っ手を掴んだ。
「そう。田口さんいい身体してるもんね」
「そうね。舞踏やってるんでしょ。あの人」
「そう。暗黒舞踏」
「教室で評判なの。一度ポーズを決めると全然動かないし、筋肉がきれいに分かれてるし、あんなモデルさん、どこで見つけて来たんだろうって噂してるの。先生、モデルの事務所、通してないみたいだし。先生の個人的知り合いなのかな?」
「ぼくはよくわからないけど、そうなんじゃない」
「えっ知らないの? あなた田口さんの所に居候してるんでしょ」
「うん。でも居候し始めたの、最近だもん。カリフォルニアから帰って来てすぐに、新宿で田口さんに拾われたんだ」
 ぼくも少し氷が解けてきたアイスティーにガムシロップを溶かして、ストローで吸った。口の中で輪切りになったレモンの酸味とガムシロップの甘みが混ざり合った。
「ふーん。そう。拾われたの」
 聖子は不思議そうに言ってコーヒーを飲み、テーブルにコーヒーカップを置いた。
「じゃあ、裸婦のモデルも一人だけ?」
「えっどうして? 裸婦のモデルさんは何人もいるわ。男性が田口さんだけだったの。だけど、やっぱり、裸婦のモデルさんも先生の知り合いなのかな」
「え? 裸婦のモデルさんも先生の知り合いなの?」
「ううん。よくわからない」
 モデルの事務所を通してない素人ができるのなら、誰だって裸婦のモデルになれるってことじゃないか。ぼくは、少し好奇心をくすぐられたので、彼女に訊いてみた。
「きみはやらないの?」
「えっ、あたしが? 裸婦のモデル? まさか!」
「いいじゃないか。綺麗だし、プロポーションもいいし」
 彼女は黙ってしまった。
「男の前で裸になったことなんてないんだろ」
 アイスティーのストローを吸う替わりに、透明なガラスコップに入った、溶けた氷が浮かんだ水を飲んだ。聖子は反撃するように強い口調で言った。
「あのー。あなたは、自分がやったからそんなこと言うの?」
「そうじゃないよ。ただ・・」
「ただ、なによ」
「見てみたいなって・・」
「え? あたしのこと」
 彼女は羞恥心をはぐらかすように笑いながら、ぼくからの視線から外れるように身体を斜めに傾けた。
「きっと綺麗だと思うよ」
 ぼくから視線を外した彼女に言うと、「あなたはもうやらないのよね?」と小さな声で言った。
「あそこで、モデル。もうやらないのよね?」
「ああ。もうやらないよ」
「なんだ。自分だってもうやらないんじゃない」
 聖子は少し勝ち誇ったようでもあったが、内心がっかりしているようにも見えた。ってことは、もう一度ぼくの裸体をデッサンしたいのだろうか。田口よりも、ぼくの方がいいのだろうか。
 ウエイトレスが空いたガラスコップに水を注ぎにやってきた。ぼくはガムシロップが下に溜まっている紅茶をストローで吸って甘みを味わいながら、ストローでくるくる氷を回していると、聖子はぼくの目を見て言った。
「あのぉ。あたし一番前にいて、あなたのこと見てたの」
「知ってるよ。でも、そんなこと考えてなかっただろ? 美大受験するためにデッサンしてただけだろ?」
「えっなにが?」
 自分でも辻褄の合わないことを言ってしまったことに気付いた。
 聖子はコーヒーカップを持ち上げてゆっくり口に注ぎ、ぼくはアイスティーのストローを吸った。
「あのとき、どうして・・」コーヒーカップを皿に戻すと、聞き取れないくらい小さな声で「あんなになってたの」と、独言のようにささやいた。
「えっ、どうして?」
「だって・・。あのとき、あたし・・。ねえ。あたしのせい?」
 聖子は真面目な目でぼくを見た。そしてすぐに苦しそうに下を向いた。ぼくは一瞬言葉を詰まらせた。でも、思い切って言ってみた。
「そうだよ。きみのせいであんなになったんだ」
「えっどうして?」
「どうしてって言ったって判らないよ。それより、きみと、これからつき合いたいんだ・・」
「えっ、あたしと? これから・・」
「そう、きみとこれから」
「えっ、つき合うの? あなたと?」
「そう、これから。ぼくとつき合わない?」
「えっ、どうして?」
「だって・・きみのこと・・」
「えっ、あたしのこと?」
「好きなんだ」
「あたしのこと?」びっくりしたように目を丸くしながら言った。
「あのとき、そう思ったの・・」
「うん。それに今、もっと好きになったんだよ」
「今?」
「そう・・今日これから、つき合ってくれる?」
「あたしと? 今日?」
「うん。これ飲み終わったら」
「えっ、これから? いったいどこ行くの?」
「田口さんの家に連れてってあげる」
 彼女は急に黙ってしまった。
「田口さんの家、面白いんだよ」
 不安そうな顔でうつむいている。
「田口さん、今日は遅くなるんだ。だから、大丈夫だよ。いないから」
 聖子は黙ったまま返事をしない。
「怖いの? なにもしないよ」
「えー。そんなことないけど・・だって・・」
「嫌ならいいんだよ。来なくて」
「えっ、どうして? そんな言い方するの」
「来るなよ。来たくないんだろ!」
「・・ねえ。もっと優しく言ってよ。そんな言い方するんだったら行かないわ」
「わかったよ。ゴメン・・。でもやっぱり、今日は、やめておけよ。いつだっていいよ。気が向いたらでいいから、また会ってくれないか」
「どうして? せっかく田口さんの家、見たいと思ったのに・・」
「え? いいの? だって、嫌だってさっき言ったから、だめなんだと思って・・」
「ねえ、どんな家なの? 田口さんの家。居候してるんでしょ。面白い家?」
「うん。面白い家だよ。田口さんの家、長屋なんだ。でも隣は空き家だから、田口さんしか住んでいないんだよ。隣の長屋とは草茫々の庭続きになっていて、その周りには何も無いんだよ。前は清水の森公園っていう保護樹木の大木が生えてる公園だし、隣は砂利敷きの駐車場だし、周りは畑と大きな保護樹木の生えているお屋敷しかないから、とっても静かだよ。それに、田口さん、長屋の壁をぶち抜いて部屋を作ったんだ。鉄骨で骨組みをつくって、コンパネとビニールの板で小さい小屋を増築したんだ。まるでビニールハウスみたいだけど、ぼくはそこに居候させてもらってるんだ。きっと驚くよ。中の壁は真っ黒で、仏壇みたいな小さな観音扉付きの窓があって・・」
「わかったわ。でも・・やっぱり今日はやめておく。・・ごめんね」
 彼女は、下を向いてコーヒーをすすった。
「え、どうして?」
 聖子は、下を向いてコーヒーカップをテーブルに置いたまま、なにも言わない。
「そう。わかったよ。じゃあ、もう二度ときみには会わないよ。さようなら」
 聖子は首を横に振った。
「いいわ。さようなら」
 ぼくがアイスコーヒーを全部ストローで吸い終わると、聖子は小さな声で言った。
「じゃあ、また今度ね」
「今度? 今度なんてもうないよ。もう、きみとは二度と会わないよ。さっきそう言っただろ」
「そんなこと言わなかったわ」
「言ったよ」
「言わなかったわ」
「どっちにしたって、もう会わないよ。二度とね。好きだけど、ストーカーじゃないから、きみにつきまとったりはしないようにするよ」
「ねえ。あたしのこと・・ほんとうに好きなの?」
「きみと付き合いたいって言っただろ!」
「でも、あたしの、あの・・」
「なんだよ!」
 ぼくが語気を強めて言うと、聖子は吐き出すように、ちがうわ! あなたが欲しいのは、あたしの体だけでしょ! それだけであたしと付き合いたいんでしょ! と言いながら急に泣きだしそうになった。
 ぼくはガラスコップの底に残っているほとんど溶けてしまった氷を何個も口の中に入れ、それを噛み砕いて呑み込んだ。
「そんなことないよ。だって、どうして、心と体を分けなきゃいけないだよ。それに、そんなことできるわけないじゃないか。きみの心が体と切り離されてて、きみの心が好きならいいっていうわけ? そんなの馬鹿げてるよ。それで気が済むんなら、そう言ってあげるよ、でも、いったいどこがどう違うんだかわからないよ、そう言えば気が済むんなら言ってやるけど・・。きみの心が好きなんだ。体なんてどうでもいい、きみの心だけが好きだ。・・どう? これならいい? これで気が済んだ?」
「なによ。その言い草。だって、あたしとろくに話したこともないくせに、好きだなんて、なんでそんなに急に、軽々しく言えるの!」
「え? そんなの理屈だよ。きみに惹かれていることに理由がなけりゃいけないの? きみの顔は綺麗だし、体も魅力的だ。それだけじゃだめなの? それよりも、きみの心が好きだと言わなければいけないの?」
「いやよ、そんなの。そんなふうに言われて、行くなんて言えない」
 聖子は潤んだ目を伏せてテーブルを見つめた。
「悪かった、ごめん。きみが好きなのに、今、目の前に見えているきみに惹かれているのに、見えない心まで好きになれと言うんなら、そうするよ。だから・・一緒に来てよ。来てくれたらなんでもするから。いや、なにもしないから。ただ、来て欲しいだけなんだ。だから・・」
「そう、わかったわ。なにもしないんだったらちょっとだけ行ってあげる。でも・・ちょっと寄るだけだから・・」
彼女は黙って、コーヒーを飲み干した。


 
 
 
 
posted by hoshius at 16:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 狂犬革命 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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