2009年01月14日

5 夜の長屋のビニール小屋の中で



 
 気付くともう長屋の前にいた。外から見ると中は真っ暗で明かりが灯いていない。
「まだ田口さん帰ってないな。今日は飲んでくると言ってたから、きっと遅くなるよ」
 雑草を踏み分けて勝手口にたどりつくと、今ではもう使われていない、すっかり腐りかけた牛乳箱の中から鍵を取り出し、鍵穴につっ込んで回した。すぐ後ろに聖子が立っている。引き戸をガラガラ開けてそこから台所に上がる。
「気をつけてね。真っ暗で狭いから」
 手探りで裸電球のスイッチを捻った。
 急に眩しくて目がくらんだのか、背の高い聖子はかがむようにして目をつぶった。
 台所の床が軋む。
「古いでしょ、この家」
「なんか、ちょっと怖い。お化け屋敷みたい」
「こっちに土間もあるんだよ」
 風呂に入るわけでもないのに、ぼくはなぜか、まず聖子をそこに案内した。
 裸電球のソケットを捻ると、ガランとした風呂場が浮かび上がった。
畳も、床も、土台も全部外した薄暗い土の匂いのする土間に、木製の古い風呂釜が置いてある。その周りには、すっかりかびて黒ずんだすのこが地面に敷いてある。這い登って中に入らないと湯船に浸かれない風呂だ。裸で、この風呂の淵を跨いで中に入るのにはいつも苦労する。でも、薄暗い土のにおいのするこの土間の風呂に浸かっていると、なぜか心が落ち着く。この風呂場も田口が作ったのだ。
「こっちにおいでよ」
 襖を開け、田口の部屋に入り、電球(この部屋の電球にだけは傘が付いている)からぶら下がっている紐を引っ張った。
 フィラメントの光に照らされてよく見えるようになった田口の部屋。勝手に他人の部屋に入るのは気が退けたが、聖子に見せたいものがあった。
 うす汚い畳の上に絨毯が敷かれていて洋間のようになっている。簡素な木製の机と、主人の不在を証明しているかのように置かれた椅子、そして、その横にはニスの塗られた古い本棚がある。幅は一間、高さは背丈ほどの本棚には、田口の脳の中に移植された後の、あるいは移植される前の思想の集積、すなわち、何冊もの単行本が綺麗に並んでいた。
『ニジンスキーの自伝』(ニジンスキー)。『天使論』(笠井叡)。『いかにして超感覚的知覚を獲得するか』(ルドルフ・シュタイナー)。『アカーシャ年代記より』(ルドルフ・シュタイナー)。『神秘学』(ルドルフ・シュタイナー)。『地獄の季節』(ランボー)。『美徳の不幸』 (サド)。『ジュスチーヌ』(サド)。その他、バタイユ、シモーヌ・ヴェイユ、ジャンヌ・ダルク、渋沢龍彦、箱入りのフランス文学全集。アルトー、ボリス・ヴィアン、そして、W・ライヒの『オルガズムの機能』、量子物理学者のハイゼンベルグやシュレディンガーの本、ゲーデルやフロイト、シュレーバーの本もあった。
 ぼくは、彫刻のように白く光る聖子の横顔に向かって静かに言った。
「どれか、読んだことある?」
「え? この本の中で? なんか、みんな難しそう」
「これ見てよ」
 ぼくはお気に入りの一冊を本棚から抜き出してページをめくった。
『ニジンスキーの手記』
 その中に載っている白黒の写真を見せた。
「ほら、ニジンスキーだよ」
 彼を指差して思わず誇らしげに呟いたが、彼女は知らないらしく、きょとんとしている。
 薔薇の精の写真を見せると、彼女は、「きれい」と一言だけ言った。
 畳に赤い絨毯が敷いてある居間を抜けて、ぼくの居候している“ビニール小屋”に彼女を案内した。
 半間に仕切られた壁に一枚のカーテンが掛かっている。だれもそこがもう一つの部屋に続く入り口だとは思わないだろう。掛けてあるカーテンを開けると、その壁はぶち抜かれている。そして、その先には闇が広がっている。でも、実際は、庭の外に増築された隠れ部屋に続いているのだ。
「頭、気をつけてね」
 畳の部屋から床を一段降りると、コンパネの床が鉄骨の上に乗っかっているだけの外の部屋に続く通路に出る。
 背の高い彼女は、頭を下げて恐る恐る中に入ってきた。
「わっ、なにこれ。鉄骨?」
 鉄骨とコンパネで囲まれた狭い通路の外から、木の葉を揺らす風の音が聞こえてくる。
「そう。鉄骨。さっき言っただろ。きっと田口さんが鳶の現場から持ってきたんだよ。面白いでしょ。こんな所にもうひとつ部屋があるなんて。壁をぶち抜いて庭に部屋を作ったんだよ」
 通路は二、三歩歩いただけですぐに四畳半くらいの部屋に突き当たる。鉄骨の骨組みにコンパネの床と壁、天井は波打った塩化ビニールの板を取り付けただけの“ビニール小屋”だ。
 ぼくは腰をかがめたまま、我が独房であるビニール小屋の中に入り、手探りで裸電球を灯した。
「わっこれ。なんか、すごい」
 闇の中から、コンパネの壁が全て黒いペンキで塗りつぶされた鉄骨がむき出しの部屋が現われた。目を細めた聖子は、真っ黒い壁に画鋲で留められているインド更紗の大きな布を見て呟いた。
「なんか、これ、いい感じ」
 裸電球に間近で照らされた聖子の鼻筋が、魅力的に光っている。
かがんだまま立っていると疲れるので、コンパネの床の上に座った。
聖子もぼくにつられて床に座った。が、いつでも外に出られるように、入り口付近に遠慮がちに正座したまま、あっけに取られた様子で辺りを見回している。
「脚くずしなよ」
「あ、うん」
 斜めに脚をそろえて、短いスカートの裾を引っ張った。
「あの・・デジャヴュって、体験したことある?」
 唐突に、しかも真面目そうに、聖子はぼくに訊いた。
「うん。もちろんあるよ。どうして?」
「あたし、今、そんな感じがするの」
「え? ここに来た事があるって感じるの?」
「そう。このインド更紗が壁に貼ってある部屋。ここ、前に絶対見たことあるわ、夢かもしれないけど・・。それに、ここに来たことがあるって感じるの。それも、こんな夜に・・」
 ぼくは少しぞっとした。
 田口の本棚にあった『ジュスチーヌ』をこっそり抜き出してきて読んだ夜、ぼくは興奮して眠れなくなった。裸電球を消してコンパネの床の上に寝そべりながら、ずっとジュスチーヌを夢想していた。この部屋に居候してからずっと、昼間は、ただただ寝ていた。真夏の太陽が塩化ビニールの屋根から降り注ぐ中、ぼくは裸でコンパネの上に寝そべり、ただじっと屋根から降り注ぐ太陽の光を見つめていた。真夏の太陽がビニールハウスに降り注ぎ、黒く塗られた部屋の中はサウナ状態になる。尋常ではとても中にいられないだろう。それでもぼくはコンパネの床の上に寝転び、顔中かさぶたになった瞼を閉じ、新宿でチンピラにリンチされ蹴られたわき腹や背中や胸や、踏みつけられた腕や脚や、腰や急所や、そしてとくに革靴の先で蹴られた左の米神に痛みを覚えながら、ただ太陽の光がそれを癒してくれているかのようにコンパネの床の上に裸で寝そべり、汗を滝のように流して、ただただじっと太陽光線を見つめていた。きっとそのせいで日射病になっていたのかもしれない。夜になると頭が激しく痛んだ。そして、左の米神に激痛が走り、気が狂いそうに我慢できなくなった。すると、突如“独房”の中に、殉教したジュスチーヌが現われた。こんな体験は初めてだった、が、きっと日射病かなにか、頭の病気になっていたのだろう。真夜中で本当は何も見えないはずなのに、彼女は3DCGのように立体的で、原寸大で、まるで本当にそこにいるかのように見えた。しかも、そこにいる彼女は、未だに純潔を保っているその肉体をぼくに捧げてもいいと伝えてきた。それは言葉で聞いたのではなかった。ぼくがそう感じただけか、彼女の思考がテレパシーでぼくに伝わったのか、ぼくにはわからない。ただ、彼女の魂みたいなものをはっきりと感じた。それでも、目に見える彼女は幻覚だとわかっていたから、彼女の肉体と交わることなどできるはずがないと思った。それに、そもそも彼女はサドの小説の中の人物じゃないか。それが幽霊になって現われるわけがない。もしかしたら、これはなにか悪霊の仕業なのかもしれない。もし、ぼくが彼女と交わろうとしたら、その瞬間、きっとぼくは発狂するのだ。そんなことを思いながらも、もし、本当に彼女と交わり合えるのなら、ぼくは狂ってもいいと思った。でも、そんなことは不可能だ。死者がどうして肉体を持っているはずがあろうか。そんなことはありえない。肉体が朽ち果てたから死者になったのだ。それにぼくは夢を見ているだけなのだ。狂った頭の作り出した幻覚と、本当に交じわり合えるわけがない。それでも、ぼくは自分が今、夢を見ているのかもしれないと考えるだけの自意識と理性はあった。それなのにぼくは、彼女の肉体と本当に交わりたくてたまらなかった。それも今すぐそうしなければ、ぼくはもう手遅れになってしまうような気がした。そうしたら逆にぼくは発狂してしまうだろう。夢でも幻覚でもいい。そこに見えるのが、彼女の本当の肉体でなければならない。そして、彼女が悪霊だろうが自分の狂気の幻覚だろうがかまわない。その肉体と今すぐ交わり、射精しなければならないのだ。そう思いながらぼくは、神に必死で祈っている自分に気付いた。起き上がり、コンパネの上に両膝をついて両手を組み、勃起したまま真剣に天井(天上)を見上げて、いつまでも神に祈り続けている自分。そうしなければ、いたたまれないほど胸が締めつけられて、狂ったように闇を見上げてジュスチーヌの肉体の前で跪いている自分。しかし、見上げていた天の闇は、いつの間にか天井に張られた波打った半透明の塩化ビニールの板を透かして差し込む暁の紫色の薄明に変わり、いつの間にかまばゆい朝日が昇ると、ぼくは再びその光に照らされている自分に気付いた。「ジュスチーヌの幻影も、朝日にかき消されて見えなくなってしまったよ。さあ、夜の悪夢から目覚めなさい。あなたの願いは必ず叶えられる・・」。地平線の向こうから登ってきた太陽が、ぼくにそう語りかけているような気がした。
 気付くと締めつけられていた胸の痛みは嘘のように消えていた。ジュスチーヌの幻影も跡形もなく消えていた。
 まさかあのときの祈りが今、聖子となって叶えられたわけでもあるまいに。でも、今、実際に目の前にいる彼女は、生きた肉体を持った女であることには間違いない。
「ねー、どうしたの?」
 ぼーっと黙っているぼくを、聖子が不思議そうに見ているのに気付く。
「え? あぁ。あの・・」
 ここにいるのは本物の女性だ。肉体を持った聖子だ。
 そういえば、彼女は大きいバッグを肩からぶら下げていて、その中に今日描いたデッサンが入っているに違いない大きな筒を持ち歩いていた。見ると、そのバッグは今、聖子の傍らに置いてある。その中には、ぼくを描いたデッサンがしまってあるはずだ。ぼくの全裸の肉体を描いたデッサン。なぜか、急に、それを見たくなった。
「あ、あの。今日描いたデッサンそこにあるの? 見せてくれない?」
口説き文句のように言うと、彼女はあっさり同意した。
「いいわよ。あまり上手くないけど・・」
 聖子はプラスチックの筒の蓋を開けると、中から丸まった木炭紙を引っ張り出した。そして、何枚か重なったデッサンをコンパネの床の上に広げると、丸まって元に戻らないように木炭紙の端を押さえながら、ぼくに見せてくれた。
 
 
 
 
 
posted by hoshius at 14:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 狂犬革命 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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